カタリナ・ヴィット、社会主義で最も美しい顔。

ISUさんにカタリナ・ヴィットさんの略歴などが載った記事がありましたので、訳してみました。

私自身はヴィットさんは94年のリレハンメル五輪でテレビで見たのを覚えています。

当時の私は子どもでしたので、88年五輪というと、すごく昔の事だと思っていましたが数字だけ見ると無茶苦茶な昔ではないなぁと思います。

 

リレハンメル五輪では、子どもの私も「カタリナ・ヴィットさんは凄いスケーター」と知っていたので、それで興奮したから覚えている、ていうのと、フリーが子どもながらに素晴らしく素敵に感じ、よく覚えています。衣装の雰囲気とかハッキリ覚えてます。

 

94年ていうと、女子シングルは大変だったんですけど、それとは別に記憶してる感じです。しかも、ヴィットさんは確かフリーの最終滑走だったと思います。

何かそういう星のもとに生まれた方なのだな、と子どもながらに思ったものです。

 

http://ow.ly/Cp4Z50ujEEr

 

【カタリーナ・ヴィット(東ドイツ/ドイツ)、社会主義の最も美しい顔】


人々は彼女をかつて、こう呼んでいた。

社会主義の最も美しい顔」と。

ドイツのカタリーナ・ヴィット。2度の五輪チャンピオンは、80年代のフィギュアスケート界を支配していた。いつも伝説のコーチ、ユッタ・ミュラーが同行していた。もしくは、カタリーナが敬意を込めて呼んでいたように、フラウ・ミュラー(ミセス・ミュラー)だ。


カタリーナは1965年、ベルリン近郊で産まれ、カール・マルクス・シュタット(現ケムニッツ校、ドイツ統一後に改名)で学んだ。

彼女はそこでスケートを始め、ミュラーの指導を受けた。ミュラーは去年の12月に90歳の誕生日を迎えた。そして最近でも氷上でその姿を見る。


フィギュアスケート東ドイツでとても人気のスポーツだった。成功したスケーターを多く生み出した。そして当時、ミュラーは世界で最も優れたコーチ達の1人であった。

1980年のレークプラシッド五輪において、

アネット・ペッチをの金メダリストに、

ヤン・ホフマンを五輪の銀メダリストに導いた。カタリーナ・ヴィットは、彼女にとって次のスターとなる教え子だった。


カタリーナ、愛称はカティ、彼女は1979年のザグレブでの欧州選手権で既にデビューしていた。当時は13歳。(年齢制限が、後に引き上げられた。)結果は14位だった。

しかしながら、彼女の台頭は、チームメイトのアネット・ペッチが1980年に引退した後から始まった。


2年後、ヴィットは初めての欧州選手権と世界選手権のメダルを獲得した。どちらも銀メダルだった。フィギュア(コンパルソリー)は常に彼女の強い部分ではなかったのだ。だがいつもショートプログラムとフリープログラムで追い上げていた。


1983年、6大会連続優勝した欧州選手権の、初めての優勝があった。でも世界選手権では4位だった。何故ならフィギュアで8位になってしまったからだ。


カタリーナは1983-1984の五輪シーズンにおいて、勝利を収めた。際立ったのは、欧州選手権と世界選手権も、サラエボ五輪と同様に優勝した事である。サラエボでは、1983年の世界チャンピオンと米国の優勝候補ロザリン・サムナースに、僅差での勝利だった。


このドイツ人スケーターは、次のオリンピックサイクルを優位に進めて行った。ただ一度だけ世界選手権のタイトルを失ったのは、1986年ジュネーブにおいて、米国のデビ・トーマスに敗れた事による。だが1987年には、トーマスのホームグラウンドで、再度彼女を負かした。


1988年のカルガリー五輪は、「二人のカルメンの戦い」で知られている。ヴィットとトーマスが二人ともジョルジュ・ビゼーの人気オペラからの音楽で滑ったのだ。

トーマスは3位となり、ヴィットが優勝した。しかし、2位のエリザベス・マンリー(カナダ)とは際どい勝負だった。カタリーナ・ヴィットは自国でも海外でも、既にスターで、1988年の世界選手権で4度目の優勝を飾った後に、競技のキャリアを終えた。

 

ヴィットはプロのキャリアをスタートさせ、ショーで演技をした。当時は東ドイツ出身のスケーターにとって珍しい事だった。まだ「鉄のカーテン」が西側と東側を分けていた頃だ。

1989年、彼女は映画「氷上のカルメン(Carmen On Ice)」で主演をした。1988年五輪チャンピオンのブライアン・ボイタノ(米国)と、1988年五輪銀メダリストのブライアン・オーサー(カナダ)らと共に。

彼女の「カルメン」の演技の解釈は、今でもフィギュアスケートにおいて最高の演技の1つとして、みなされている。2018年五輪チャンピオンのアリーナ・ザキトワ(ロシア)は、昨シーズンにカルメンを滑ったが、ヴィットの演技を見たと言う。彼女から学ぶためだ。


ISUが1994年の五輪でプロスケーターの競技復帰を許可をした時、ヴィットもその機会を取ったスケーター達の1人だった。多くの人々は、最初にその事をPRの動きだと思った。だが、カタリーナは真剣だった。

彼女はケムニッツ校のフラウ・ミュラーの所へ戻り、懸命に練習して、統一ドイツ代表としての試合のチケットを手に入れた。

欧州選手権では8位で、リレハンメル冬季五輪では7位だった。


カタリーナはフリーの「花はどこへ行った」を、サラエボの人々のために捧げた。サラエボは、彼女がその時から10年前に五輪チャンピオンになった場所で、元ユーゴスラビアの内戦の間、非常に苦しんだという事があった。彼女はリレハンメルフィギュアスケートの試合が最後となり、多くの観客を素晴らしい演技で感動させた。

ヴィットは当時28歳、もう一つの金メダルのために復帰したのではなかった。しかし彼女は五輪をもう一度経験するために復帰したのだ。「優勝しなければならない」というプレッシャーは無い状態で。

 

リレハンメルの後に、ヴィットはショースケートに戻った。その他のショーや演出、演技、公演の調整、といった事業にも戻った。

彼女は自叙伝(コンパルソリーからフリースケーティングまでの私の時代)の出版もした。

彼女は2008年の最後のサヨナラツアーにて、ショースケーティングから引退した。そして今はスポーツ振興、環境保護やチャリティー等の事業に集中している。


それでも、彼女の名前はフィギュアスケートと繋がって今でも残っている。カタリーナ・ヴィットはミュンヘン五輪招致プレゼンテーションの委員会の指揮者だった。今は、ドイツのTVで五輪のフィギュアスケートを解説している。

 

 

終。