ヴィンセント・ジョウ選手がこれまでのスケート人生と未来について語っています。

国際スケート連盟さんのホームページに、ヴィンセント・ジョウ選手のインタビューが載っていたので、主にヴィンセント選手の言葉を訳してみました。

 

英語の元記事は

こちら

です。

 

グランプリシリーズのアサインも発表されましたが、本当に今後どう大会が開催されるのか、よく分からないですね。とにかく開催されるなら、問題なく終わってくれる事を願うのみです。

 

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【ヴィンセント・ジョウ:ジュニアから大舞台への旅路】

 

今私達に五輪や世界の舞台で感銘を与えるスター達は、全員がジュニアのレベルからスタートし、彼らの旅路はジュニア・グランプリシリーズから進み始めた。その内の一人がヴィンセント・ジョウであり、彼は2017年世界ジュニア選手権でタイトルを獲得した。その次のシーズン、彼は五輪チームに入り、平昌五輪で立派な6位という順位になった。2019年、世界選手権と四大陸選手権で銅メダルを獲得した。

 

(ジュニア・グランプリのデビューについて)

「僕は、ついに大きな国際競技会に来た事に興奮していたのを覚えています。そして他の国の全ての男子選手達を見て、僕が世界の表彰台に乗るレベルに到達するという夢を叶えようとしている間に、この同じ人達と長いこと競っていくのかもしれない、なんて考えたりしました。僕がショートプログラムで68点を取り、初めて4回転サルコウをフリーで降りて銀メダルを取った時、ジュニア・グランプリデビューの成功の事で、自分が誇らしかったです。」

「僕は若い頃からずっと、誰かになりたかった。成功したかった。ジュニア・グランプリに出場している全てのスケーターを称賛していました。僕はその全部を見ていて、殆ど規則的に結果を追っていました。ついにジュニア・グランプリに振り分けられた時は、まるで大きなものを受け継いだような感じでした。そして競技をする事の最初の1歩であり、世界選手権や五輪といった大舞台へと僕の道をつなげていくものとなりました。」

 

(2015年ジュニア・グランプリ・ファイナルについて)

「僕は学校で机の下からライブストリームで7番目のジュニア・グランプリを見ていました。最後のグランプリ・シリーズの結果次第で僕がファイナルに行けるのかどうか決まるからです。僕は明確なスケーターの順位と、自分がファイナル進出するための得点を計算していました。スケーター達が演技を終えた時、自分がファイナル進出だと分かりました。授業はまだ終わっていなかったので、僕は静かにその事を祝福しないといけませんでした。僕の胸は幸せではち切れそうでしたが、そこに座っている事しか出来なくて、興奮を隠していたんです。僕は国際大会に出場した最初の年にファイナルに進んだ事を、物凄く誇らしく思います。加えて、ファイナル進出という事は、僕の憧れの人達がシニアレベルで競技する所を生で見る事になる、という事でした。僕はユヅ、昌磨、ボーヤン、ハビ、そしてパトリックを生で見たんです。まさに忘れられない経験です。ユヅは世界最高得点を獲得して、全員がすごい演技をしました。そして観客はクレイジーでしたね。まさに世界レベルの競技会での最高の生観戦の初体験でした。」

 

(世界ジュニア選手権について)

「僕の最初の世界ジュニア選手権は素晴らしい学びの経験となりました。僕は自分の能力のベストではなかったにも関わらず、トップ5に入りました。僕はここが自分の舞台かのように感じ、来年に優勝するには僕に何が必要か、と自分に問いかけるという非常に良い感覚を得ていました。」

 

その通り、この類まれなスケーターは次の年に台北でタイトルを獲得したが、それは容易な努めではなかった。

「2016-2017は僕にとっては大変でした。それから全てのシーズンがジェットコースターのような物語です。でもここから全てが始まりました。最初のグランプリ(横浜、日本)の後、新しいフリーを作らなければいけませんでした。当時のものは上手くいかなかったからです。次のグランプリ(タリン、エストニア)までたった1週間しか僕にはなく、一時的な衣装を作る時間さえもありませんでした。それでもどちらのグランプリもメダルを獲得して終えたんです。けれど僕は腰を怪我してしまっていて、どちらのグランプリでも最高の技術内容で演技が出来ませんでした。それが影響してファイナルに進出できず、また世界ジュニアのタイトルを取る対象から外されていました。殆どの人々は他のスケーターが勝つと見ていたのです。しかしファイナルで他の人達がスポットライトを浴びていたその時、僕は下を向いて回復に集中し、可能な限りの最高難度の内容を組み立てる事に、これでもかというほどに取り組んでいました。その後、僕は突如として台北に登場し、フリーでの4回転ルッツと2回の4回転サルコウに人々は驚いていました。そして巨大な数字の(ジュニア)世界最高得点を獲得したんです。それは僕のキャリアにおける、勝ち目のない物語からの初めての飛躍でありました。」

 

(五輪チームに入るまで)

ジョウはジュニアの舞台で自分の才能と能力を証明していたが、それは強い米国内において翌年の五輪や世界選手権へ行けるという事ではなかった。

「五輪は2017年世界ジュニア選手権に続く次の年であり、僕にはチームに入るためのチャンスは少ししかないと知っていました。ジュニアで成功しなければいけませんでした。」

「五輪の人材の可能性として人々が見て、僕を考慮してくれるようにするために、3種類の4回転を実施しなければいけなかったんです。フリーに4回転ルッツを含めたものです。ですから僕の世界ジュニア選手権での成功は、先程も言ったとおり、勝ち目の無い五輪ストーリーからの初めての飛躍でした。実際、前年の2016-2017シーズンは、2018年の五輪は不可能かなと思いました。しかしながら、僕のジュニアでの飢餓的な駆り立てていく成功と共に、自分自身が五輪チームレベルの可能性にどんどん近づいていると気づいていました。」

 

「僕はこう推論していました。もし僕がジュニアで258点を取って、4回転ルッツを跳んだなら、更にもし4回転フリップや4回転トゥループ(既に2016-2017に出来ていました)がプログラムに入れるために十分な出来であれば、五輪チームの資格を得られるだろうと。しかし、それは賭けでした。そして信じ難いほどの鍛錬と大変な練習を積むことになります。つまりそれが正に僕がやった事なんです。

それで、2017-2018シーズンに五輪チームの枠に届こうとして、何度も失敗しました。全米選手権の2ヶ月前のグランプリ・フランス杯で、僕は人生で最悪のプログラムを2つやりました。それはまるで僕の最高の夢、それは常に不可能に思われていたけれど、突然かろうじて到達できそうになったその夢が、僕が掌で掴むより早く壊れてしまったような感じでした。僕は落ち込んで家に帰り、もう一度夢を見ようとしました。自分の指導の状況とトレーニング・メソッドを再評価して、もう一度ゼロから積み上げて行く事を始めました。

全米選手権が近づいた時には、3つの五輪枠を争う5人の男子選手(ネイサン・チェン、アダム・リッポン、僕、ジェイソン・ブラウン、マックス・アーロン)がいたんです。その後、ロス・マイナーが2位になり、皆を驚かせました。しかしながら、皆はそれでも僕よりも強い、本質的な議論をしていました。僕はフリースケーティングを一番最初に滑って、僕の後の男子選手を見て、僕はチームに入るために十分な事をしたんだと静かに祈っていたのを覚えています。殆ど息も出来なかったんです。僕よりも経験があり、チームに入る資格がある何人かの選手は、痛手のあるミスをしました。そして、僕にはチャンスがあると気づきました。とても小さなチャンスでしたが、それでもまだ可能性はあるのだと。

大会から1時間後、僕は殆ど一言も話せず、来るかどうかも分からないメールを待ちました。メールは僕がチームに選ばれた事を告げていました。午前12時31分、ついにやって来たんです。もしかすると僕の人生の中でも最高の瞬間でした。数え切れないほどの夜を眠れずに天井を見つめて横になり、奇跡を願って祈り、営業終了した後のジムで過ごした時間、もっとやらないと、強くならないといけないと知っていて、汗を振り払い、反復運動を更に繰り返すための疲労、そしてこの繰り返し行う反復練習がチームに入れる僕とそうでない他者の間に違いを生むのだと言い聞かせて、最終的に努力は実りました。

僕が小さな男の子だった頃にバンクーバー五輪エヴァン・ライサチェックが金メダル取った所を見ていたのが、まるで昨日の事のように思えます。畏れ多い事ですが、いつか僕もそのレベルに近づいていけたらと思っていました。ついに僕は夢を叶えたんです。」

 

(五輪後のシーズンについて)

ジョウは韓国で特に力強いフリーを行い、五輪デビューでショート12位から6位まで順位を上げた。しかしながら、2018年世界選手権ではフリーで失速し、ショート3位から14位へと落ち込んでしまった。スケーターは次の年のために再構成しなければいけなかった。彼はもっと遥かに進化したいと思っていた。

「続く次のシーズンは更に厳しいものでした。」

「五輪で5度の4回転を決めた後、僕はもう一人のただの4回転ジャンパーだと印象づけられてしまいました。不運にも、五輪チームに入るために僕がやらないといけなかった事とは正にそれだったのです。僕のシニア1年目には、僕の演技構成点がすぐに急上昇しないだろうと分かっていました。ですからより難度の高いジャンプを跳び、得点を伸ばさないといけなかったんです。僕のゴールは常に完全なるスケーターになる事、ジャンパーであると共に素晴らしい表現者になる事でした。でも夢を成し遂げるために僕はもう一つの事に集中しないといけなかったんです。でも今、全体像を掴むべき時が来ました。スケート技術を磨きながら、僕を世界選手権の表彰台へと連れて行く手段として演じる可能性のある、2つのプログラムを創り上げています。

僕のジャンプは以前よりも良くないと感じ始めました。技のつなぎと共に完成したプログラムを試みて、振付に入り込み、音楽を理解して、そして複数の難しい4回転をやるのは、リンクの端から端までジャンプを跳ぶスケーティングとは全く異なるレベルです。それから、スケートアメリカがありました。そして突然、僕はプログラムごとに複数の回転不足コールのターゲットになっていると気づきました。そのうち幾つかは相当な疑問がありました。そしてそれはインターネットで押し寄せた僕への直接的なヘイトにもなりました。全ては突然に、僕はクリーンなジャンプが跳べなくて、表現力もないのだと。僕は外側の影響を振り払って、自分のジャンプのどこがいけないのかを自分で判断する事に戻り、芸術性と演技構成を伸ばす事を続けなければいけませんでした。

僕は、何が僕にとって"クリーンな"ジャンプなのかを完全に再定義する事に落ち着きました。そして少なくとも最もクリアなジャンプを期待する事を始めました。自分自身の、最もクリアなジャンプの事です。そしてそれでも、アンダーローテーションのコールを受けました。僕は2019年の四大陸選手権を覚えています。完全に後方を向いた4回転ルッツー3回転トゥループをビデオの中で跳んでいました。最も未熟なコーラーからのレビューさえ無かったんです。そして、3回転トゥループがアンダーとコールされました。

その記者会見にて、銅メダルを取ったためですが、僕は世界選手権の目標は何かと聞かれました。僕はこう言いました。この競技会での成長と共に、初めての主要なISUイベントのメダルを獲得する事です、と。僕は世界選手権で銅メダルを取る可能性があると分かっていました。やはり五輪チームに入るのと同様、大きな賭けではありました。多くの要因が僕に相反していたし、他のスケーター達、世界選手権メダルを非常に有望視されたスケーター達の演技による所もありました。それでも僕は分かっていました。もしクリーンに滑ったなら、ショートで2つの4回転、ロングで3つの4回転、そしてセカンドマークにおける成長とがあれば、可能性はあると。そしてもし僕がそれを成し遂げたなら、僕の途方もなく凄い夢が現実となるのです。

それにより、僕は笑われてしまいました。人々はこう言ったのです、僕には出来ないと。こうも言っていました。僕がそれに相応しく優れているという、自惚れ屋になっているのだと。1ヶ月後に、僕は出かけて行って、彼らに見せてやりました。僕には出来ると言う事を、人々に証明したくて仕方がなかった。僕は自分の熱望を何もない事のように捨て去るのを拒否したんです。そして僕はやりました。すーーーっごく良い気分でした。そして1週間後、世界国別対抗戦に出て、ほぼ完璧なフリースケーティングもあり299点のスコアを取りました(300点って言おうよ)。世界選手権の銅メダルはただの"たまたま上手くいった"ものではない、という事を固く示した事になりました。

そしてこの全期間中、僕のクレイジーな旅路の始まりはジュニア・グランプリだという事、一度も忘れた事はありません。ブラチスラバの氷上に出ていった時の、あの畏れの感覚を忘れていません。絶望と同様に、自分が国際舞台に立つ価値があると証明するのだというハングリーな気持ちです。そのような道と共に歩んだ僕のスケーターとしての成長は、成功、失敗、苦しみ、決意、そして最終的には夢の実現の物語です。そしてこの道と共にある全ての困難にも関わらず、僕は他のどんな人生の中でも簡単な方向は選ぶ事はありません。それを選ぶと、今の僕自身にはなっていないでしょう。」

 

(ジュニアについて)

「ジュニア・グランプリで競技をしていた頃と同じ位にはジュニア勢は見ていませんが、それでも今の世代の子たちの事は追っています。彼らは素晴らしいと思います。僕が彼らのレベルにいた頃よりも優れたスケーター達が沢山います。彼らの成長を見る事、そしてまたゆくゆくは共に競技に出て、若い世代から背中を押されたり影響を受けたりするのは、すっごく興奮しますね。」

 

(コロナウィルスの影響でジュニアグランプリが中止になり、ジュニア世代への言葉)

「諦めないで!僕の上記のストーリーから皆さんが言える事は、僕は正しい猛特訓と献身、そしてどんな不可能な夢も成し遂げられるのだと、強固に信じている人間だという事です。それから少しアドバイスをするなら、五輪の4年間のサイクルを早くから考えると良いでしょう。僕は2016-2017のジュニアのシーズンに2018年の五輪チームに入る計画をしていた事が、実を結びました。」

 

(今後について)

「今は、完全に2022年五輪の表彰台に照準を定めています。今年のプログラムは、完全に五輪を想定して僕達は創り上げました。そして僕が今やっている事の全ては、その時が来た時に物事を確実にするためです。可能である最高の状態で行き、ずっと夢見ていたスケートをする事が出来るように…素晴らしい4回転と、素晴らしい演技と芸術性でもって。今シーズンの競技会の状況はまだ誰にも分かりません。ただ僕はコロラドで地方の小さなものに出ました。今シーズンを良い形でスタートが切れました。今年の僕のプログラムは2つとも大のお気に入りです。これらを大舞台で演じる事が待ちきれないです。僕が何を達成できるか、を見る事を楽しみにしています。そしてもう一つの世界選手権のメダルのために戦う事になるでしょう。」

 

終。

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途中の(300点って言おうよ)というのは、ヴィンセント選手の言葉です。インタビューのものをそのまま訳しました。悔しかったんでしょうね…。

 

国際スケート連盟のページに載っていたヴィンセント・ジョウ選手のインタビューでした。ヴィンセント選手はブログ主がとても好きな選手です。物静かな人ですが、とても演技に入り込むと人が変わったように集中して曲に入っていきます。大学生になり練習がままならない状況が続き、去年は苦しんでいましたが、今年はどうなるでしょうか。競技会が開催されるのか、発表があってもまだ疑問が残る状態ですが、ヴィンセント選手は五輪を見据えて取り組んでいるんですね。是非その夢が叶う所が見られたら…と思います。

ご本人が他のインタビューでも良く話していますが、「アンダーでは無いジャンプからでもコールを受ける。」という話。これは審判ではない私には分かりませんが、レビューなんかで私でも(あ、これは取られるかな…)て思うものも確かにあります。でも(これは大丈夫かな)と思っていたらコールがついていたり、それ以外にも沢山取られている事もしばしばで、厳しいのか、それが合っているのか、分かりませんが…良い演技をして明るい表情のスケーターが点数が出た途端に表情が曇る、というのは見ていて辛いですね。それとヴィンセント選手の場合はやはりセカンドマークがなかなか上がらない。ジュニアの頃はやはり、とにかくジャンプ、ジャンプでしたが、シニアに上がってからは見違えるようです。彼に合った音楽を選べている、とも感じます。北京五輪ではどうなるのか…見守りましょう。

 

北京五輪もそうですが、東京五輪も本当にやるんでしょうか…正直2022年もちょっと雲行きが怪しくなってきたなと思ったりします。あまりにも感染の危険が避けられないとか、まだまだその頃になっても世界中で感染者が出ているとか、であれば、悲しいけれど無理に開催してほしくありません。恐ろしい事です。どうなるんでしょうか……。