2012年、羽生結弦選手が過去や今のスケートについて語ったものです。①

また懐かしいものから。アブソルート・スケーティングさんの2012年の記事に羽生結弦選手のインタビューが載っていましたので、訳してみました。かなり長いので、いくつかに分けたいと思います、

元の記事は

こちら  

です。

記事の最後のインタビューは2012年スケートアメリカエキシビションの時に行われたようです。

 

トップ選手になりつつある、どんどん追い上げている最中の羽生結弦選手の英語の記事は、なかなか珍しい気がします。地震についての所はやはり胸が痛くなりました。

当時はカナダに渡り、どんどんトップへと駆け上がって行く所でしたが、それでも2014年の五輪で金メダルを取るとは想像が出来ませんでした。ショートの「パリの散歩道」も、最初は17、18歳の男の子にこんな大人っぽい曲を?と思いましたが、今では代表的なプログラムの1つですね。

ずっと見ていると、あまり変わってないような気がしていましたが、突然10代の写真を見ると、わぁなんて幼いんだろうと思います。本当に素敵なスケーターになりましたね!

 

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羽生結弦︰過去、現在、そして未来】

 

(前略)

 

『過去』

結弦は4歳の時にスケートを始めた。多くのスケーター達のように、年上の姉弟(彼の姉)についていき、リンクへ行った。

「振り返ると、僕は練習をよく嫌っていました。でも試合は好きだったんです。大勢の人が客席で僕のスケートを見ていました。」

彼は彼の本の中でも思い返している。そこに、彼が初めての試合で勝った時の詳細をもう少し付け加えた。

 

「ダイエイ・カップでした。千葉県の新松戸市にあるアイスリンクで開催されていました。その当時、僕は6歳。僕が試合で優勝した時、僕には前歯が無かったんです。でもプログラムの間中、とても頑張って笑おうとしました。コーチが「笑顔!」と僕に言っていたからです。その当時の演技のビデオを今見ると、全く可笑しいんです!僕は笑顔で頑張って滑ろうとしていました。そしてプログラムの最後に、僕は数えていたんです。1、2、3…って。最後のポーズを保持している間です。僕のコーチが「3秒間、確実にポーズを取ったままでいなさい」と言っていたからです。

僕がダイエイ・カップの表彰台に立った時、トロフィーを高く持ち上げて、観客の皆さんに見せたんです。子供っぽいトレーニングウェアを着ていたのに、僕は完全にプルシェンコのように振舞おうとしていました。そして、歯が抜けた状態で笑っていたんです。」

 

彼はある時点では練習が嫌いで、野球へ変わろうかと考えていたかもしれないが、結局の所、彼はフィギュアスケートが好きであり、そこにいたいと気づいたのだった。彼は2004年に全日本ノービス選手権の、ノービスBカテゴリーで優勝した。小学校4年生の時だった。しかしその後すぐに、彼のホームリンクは経営難のために閉鎖された。その事は結弦の氷上で過ごす時間、トレーニングを大幅に減らしてしまう事になった。

「リンクが閉鎖された後に、僕は再度フィギュアスケートとはなんて面白いんだと気づきました。僕がそういう考えへと至ったのはその時でした。結局僕はフィギュアスケート無しではいられないのだと、最終的に気づいたんです。」

 

アイスリンク仙台が再開されたのは2007年の事だった。そして同じ年に、結弦の故郷である仙台はNHK杯(グランプリ)を仙台市体育館で開催した。結弦はそこでフラワーボーイとして参加していた。彼は再度フィギュアスケートに自分自身を捧げられる事になり、それは即座に全日本ノービスAクラスでの金メダルという結果につながった。そしてその後の全日本ジュニア選手権での銅メダルである。

 

そして、その数年後の2010年、15歳の時、彼は世界ジュニアチャンピオンになった。

「世界ジュニアで優勝が出来て、とても幸せです!でも何よりも、そのシーズンの最高の演技を、そのような大きな舞台で出来た事です。」

彼は当時のインタビューでそう言っていた。

「僕は唯一の日本代表の男子選手としてプレッシャーは感じていましたが、僕はミス無しで演技をやって、難しいジャンプを決めて、それはトリプルアクセルでしたが…。阿部奈々美コーチ、仙台のリンクが無くなった頃から一緒に取り組んで来たコーチですが、そのコーチのおかげで今の僕があります。いつもコーチを信じていました。一緒に取り組んで、僕に作ってくれたプログラムを滑りました。だから僕は世界ジュニア選手権で優勝できたんです。」

 

2010-2011年のシーズン、彼は既にシニアのレベルに移行した。19歳までジュニアで競技を続けられるスケーターにとっては、並外れて早い移行だった。シニアに上がるという事はまた、結弦にとって最も優秀なスケーター達と競技をするという意味もある。特に、彼が憧れていた高橋大輔、そして結弦が非常に称賛するスケーティング技術のパトリック・チャンだ。彼はまたジュニア時代の同輩達とのライバル関係の継続を熱望していた。特にアルトゥール・ガチンスキーとナン・ソン、2010年世界ジュニア選手権の表彰台で彼の隣に立っていた者たちだ。

「僕は勝ちたかったから、成長するために練習を一生懸命やりました。そして良いライバル達がいるから、僕は勝ちたいんです。」

と彼は言った。

 

結弦は最初のグランプリ大会でメダルの獲得はなかったが、2011年2月の四大陸選手権で銀メダルを獲得した。彼は難しいシーズンを調子が良い状態で終えられた事が嬉しかった。

「その年は、問題を克服しながら成果を上げるという、素晴らしい年になりました。何よりも、シーズン最後の試合でとても良い演技が出来ました。それはISUの競技会(四大陸選手権)です。この先の何年も誇りに思える事だと思います。」

それでも彼は自分自身に厳しくあり続けた。何を成長できるのかを見つけ出そうとしていた。

「僕は銀メダルを取ったかもしれないけれど、僕にはまだ長い道のりがあると思います。僕の弱みの1つ、もっと上に行くために克服しないといけない事は、 身体的な強さです。オフシーズンの間にランニングやスケーティングにもっと取り組まないといけません。」

 

不運にも、彼のオフシーズンは計画していたものとは非常に違うものとなった。彼のシーズンが終了してからたった3週間後に、巨大な地震が東日本を襲った。そこは彼が住んでいた仙台を含む。地震が始まった時、結弦はトレーニングをしていた。そして、子供の頃の地震を思い出し、彼の周りのビルが揺れているという恐ろしい奇妙な感覚と共に、凍りつき動けなくなった。

「今でも目を閉じると、沢山の事を思い出します。氷が揺れている感覚、押し上がってくる地面の揺れ、地震によって僕の脚が揺れているというのは、なんと酷いものだったのか。今でも鮮明に全てが見えます。リンクが破壊された時の事を。」

 

(続きます)

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スケートを始めてからシニアデビューの年まで、の所でひとまず終わります。地震の所はやはり読んでいて辛くなってきました。

 

ブログ主も2011年3月11日の事は良く覚えています。その日は務めていた学校の卒業式で、式のあとに帰って来て、帰りに携帯ショップに寄り、初めてスマートフォンを買いました。赤を選びました…ピンクが無いから赤でいいやと思って。やたら覚えてるんですよね。

帰宅後にコタツに入り横になってウトウトしていたら、突然に窓やガラス付きの引き戸(古い家だったので)がガタガタ…というかガチャガチャガシャンガシャン言い出して、なんか床が揺れてるというより、動いてる?ような不思議な感覚で。「お母さん、これって強風なの地震なの?」と母親に聞いたのも覚えています。

あまりの不思議な感覚に母親も分からない様子で、とりあえずNHKを見てみようと言うことになり、テレビをつけると…地震だったんだ…と。そして、どうやら普通の大きな地震ではない、という事もニュースを伝える様子や表示されている図から分かりました。

私が住んでいた場所は震源地からは結構離れていました。それでもあれだけ揺れていたなら、東北の方はどれほどだったか…。想像もつきませんが…。

 

実は当時、少し落ち着いた頃にパッと私の頭に浮かんだのは羽生結弦選手の事でした。羽生選手は東北だったはず…大丈夫だろうか…とハラハラしました。その後スケート連盟からだったでしょうか、羽生選手と家族も無事であると発表があり、ホッとしたのを覚えています。でもそれは羽生選手に対してだけの事です。当時は色々な情報がどんどん出てきて、地震後の自分は普通の生活を送るしかなかったのですが、その辺りはあまり覚えていません…。しばらく過ぎてから、少額でも何かの役に立つならと、ネットで寄付をしました。その少しの寄付でもやろう、と気持ちが動くまでの間は、なんというか、決まった予定をこなしていただけのような。多分他の皆さんもそんな感じの人がいたと思います。

 

実際に被災していない私がものすごく衝撃を受けたのに、当時16歳で被災した羽生選手はどれほど恐ろしかったでしょうか。インタビューでは言葉に表現できない感覚もあると思います。正直、ファンとしては「もしかしたらスケートを引退してしまうかもしれない。例えそうなっても受け入れる心の準備をしておこう」なんて考えていました。本当、勝手なんですけどね…。

今でもスケートを続けて、災害のあった場所への支援を続けている羽生選手。今でも彼のスケートが見られる事は幸せな事ですね。

②へ続きます。