2006年のブライアン・オーサーさんが自身のキャリアについて語っています。

今回は懐かしい記事から。ブライアン・オーサーさんのインタビューがアブソルート・スケーティングさんにありましたので、一部を抜粋、訳してみました。

記事は こちら

です。

お写真もありますが若いですね!当時はまだプロスケーターや振付師としての活躍もしており、コーチとしてはキャリアが始まったばかり。そのために質問は基本的にオーサーさんのプロスケーターとして、現役の頃の話、振り付けやショーの話が沢山です。

この後に名コーチと呼ばれるようになるとは、本人も思っていなかったでしょうね。

ちょうどプロスケーターとしてキャリアを終えるか終えないか、の時期だと思います。

 

この記事は「質問→答え」の形ではなく、いわゆるオーサーさんを取材したものになっています。

 

B→ブライアン・オーサーさん

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ブライアン・オーサー︰ずっと、ずっと続けていくもの】

 

ブライアン・オーサー以上にフィギュアスケートの歴史で物事を成した者は数人だけだろう。彼が1974年、12歳でサンダー・ベイでオンタリオ・ゲームに勝利した後、国際試合を通して長い旅路へと船出したのだ。そこには他にも多くのものを含む。8回のカナダ選手権の優勝、1987年の金メダルを含む6回の世界選手権のメダル、そして2回の五輪の銀メダルだ。

しかしブライアンのストーリーには競技会やメダル以上のものがある。1988年にプロスケーターに変わった後、彼はスケーターの振り付けや指導の仕事を続け、スターズ・オン・アイスや他のショーで滑り、CTVで解説をして、彼が滑るショーの振り付けやプロデュース、他にももっと働いた。最近ではトロントクリケット・アンド・スケーティング・クラブに彼はいる。トレイシー・ウィルソンと共に働いている場所だ。五輪チャンピオンのイリヤ・クーリックが夏に3つのセミナーを教えていた。全てはブライアンに感謝だ。この秋には複数のディッソンのショーの仕事が彼を待ち受けている。そしてヨーロッパのスケートファンにとって喜ばしい事に、ブライアンは4度目のプロキシウス・スターズ・オン・アイスの振り付けでアントワープへと戻ってくる。昨年の秋が彼にとって初めてのベルギー来訪だった。そのショーの振付師であったリー・アン・ミラーの後、彼女がその仕事を勧めた。

 

B︰リー・アンは北米の色々なショーでの振り付けでとても忙しかったんです。それから彼女はグランプリ・イベントと全国大会で、あるテレビネットワークでも仕事をしていました。それで彼女は少し圧倒されていたんですね。僕は彼女がこの仕事を良くやって、共にショーを作るために僕を信じてくれた事について、とても気分が良かったです。最後には、全て上手く行きました!

 

その通りであった。アントワープのショーは非常に成功を収めたが、そこに行き着くまでには観客が見る事はない長い準備があったのだ。ショーをひとまとめにするために、イベントのずっと前から仕事は始まる。そしてブライアンは何が起きるのかヒントを得ていた。

 

B︰ある程度は大抵同じなんです。僕には2.3人の男子と2.3人の女子、それから何組かのカップルと一緒に仕事をします。僕が考えた唯一の方向性は、ショーの一部が五輪であるべき、ということです。そして僕はそれをオープニングにしました。五輪イヤーでありますから、殆どの競技者のスケーターはショートプログラムかロングの一部をやるだろうと考えていたのです。

 

競技者のスケーター達がトリノ五輪に集中を始めてからは、キャストの契約を得るまでに通常よりも少し長くかかった。ブライアンはすぐにでも彼らがどのような道を行くのか、そしてどう大切に扱わないといけないのか、を関連付けていた。

B︰トレーニングのルーティンを崩してショーに出るのはキツい事ですよ、彼らがいつも通りに練習して次の試合に備えている時というのは。僕は彼らに、"もしホームで追加の練習日があったら、もっと上手くやれていたんじゃないか"、と考えて欲しくはない。だから僕はリハーサルをシンプルに出来るよう努めて、彼らに多くの休息時間を与えている。それから彼らのためのトレーニングに十分な氷上の時間も。つまり、僕はその状況にいた事があるから、分かるって事だよ!

 

(中略)

 

ブライアンが世界選手権で優勝してから多くの年月が過ぎたとはいえ、彼は今でも自身のスケーティングで観客をどうやってつかむのかを知っている。80年代を振り返り、彼が参加したISUのトップスケーター達によるツアーのための「有名なバックフリップ」は、進化していった。そして今でも跳べるのだ!最近の噂で言われている、彼がスケーティングの部分からは引退するという話は、誇大に語られたものだと証明された。彼は氷上で今でも素晴らしい。

 

B︰その、僕は競技に出ている子供達のように全ての大技はやりません。でも、僕がやれる事をやって、上手くできるように頑張っています。スケーティングというのは常にトリプルアクセルや4回転トゥループだけだとは思いません。美しいストロークや優れたエッジの事だと思います。少なくとも、それが僕が今考える事です。20年前なら、何か違う事を言っていたでしょうね!

 

競技に出ていた期間、彼は脚を3回骨折した。怪我した脚へのプレッシャーをある程度無くすために、彼は右回りのジャンプを習い始めた。この事を達成したのは、今の多くのスケーターが羨むだろう。

 

B︰今でも(シングル)アクセルは出来ます。でも(ダブル)サルコウはだめ。脚を骨折するたび、その後氷上に戻っても医者は僕にジャンプをやらせませんでした。着氷のためです。ですからもう一つの方法でやり始めました。それで別の足で降りることが出来ていました。それは僕にとって、とても良いトレーニングでした。もしその頃にコード・オブ・ポイント(COP、新採点)があったら、僕は両方向のジャンプを追求し続けたでしょう。すごい点数を取れたでしょうから。想像して下さい。コンビネーション・ジャンプをある方向の回転で跳んで、その次に逆回転。なかなか凄い事になるんじゃないですか!

 

ほら、ジャッジの皆さん、これをどのように採点されるのでしょうか?

それでもCOPは既にブライアンにとっては古いニュースであった。振付師として、彼は全ての道筋を追い続けなければいけない。彼は概ね新採点に賛成である。

 

B︰彼らは学習のエクササイズを通っている最中です…僕はスケーター達が挑戦を受ける事になるアイデアが気に入っています。それからスケーティングの質を持っていなければならない事です。こういった事を持つ者がトップへ届くスケーター達なのです。僕はスケーター達がスピンやフットワークに更に集中する所もまた気に入っています。そしてそのフットワークとは、ただのトゥピックではありません。両方向におけるターンとエッジが必要なのです。僕が子供の頃、常にどちらの方向にもスケートの事をやっていました。そして、審判がそれを難しい事だと見てくれるのを望んでいた。おそらく審判にとっては何ら良い事ではありませんでした。でも僕にとっては良い事だった。僕が好きじゃない点は、審判達がスコアの事をもはや説明可能では無いという事です。僕は、とある審判がブーイングをくらうのが好きでした。なかなか楽しかったと思っていましたよ。そこが1つ、欠落している所で、挑戦する事にリスクが少しあり過ぎます。今の所は、4回転です。何人かの選手は3フリップ-3トゥループをやり、4回転に挑戦しません。4回転に挑戦する人はいますが、審判が失敗だとか両足着氷だと言うと、その試みに対して評価をもらえなくなります。このスポーツの要素は今の所、少し失われています。ある種のリスクがある要素、4回転のカテゴリーがあるべきだと思います。選手が許可されているジャンプの回数は8回です。しかしその内の1つが4回転なら、9回跳べる、というのを僕は考えます。そうしたらスポーツはそれに沿って動いていきます。4回転を跳ばずに表彰台に立つ者を見なくなる事でしょう。ガイドラインの中で仕事をするのは、そんなに難しい事ではありません。

 

(中略)

 

数年に渡り、ブライアンは多くの人達と仕事をしてきた。しかし彼の競技者としてのキャリアを通しては、コーチは一人だけであった。ダグ・リー、そして彼の多くの振付を提供したウッシー・ケスラーだ。特別な関係が作られ、そしてそれは今でもある。

 

B︰ダグとウッシー、全く、彼らは家族ですよ。本当に!僕は彼らをとても尊敬しています。ダグに関しては、最近僕の昔の試合とキスアンドクライのビデオを見ました。ダグのすごい所は、彼は素晴らしく人に意欲を与える人物であり、類まれなコーチなんです!殆ど全ての人がスケーティングを教える事が出来ると思います。しかし高いレベルの競技会で人を奮起させて、正しいボタンを押して、ベストを引き出す事が出来る人は特別な人なのです。僕はたびたびその学校(マリポーサ校)に飛び込んで行きました。バリーからそう遠くない場所に僕のコテージがあったからです。僕が思うにダグも、スケーティングから離れようとしている所です。ですが彼が五輪チャンピオンを(教え子に)持たずに離れるとなれば、惜しい事です。僕は2度、2位になりましたがチャンピオンではありません。辛いですが、それが人生というものです。

ウッシーとはしばらく会っていないです。でも僕はいつも彼女との仕事を楽しんでいました。時々、彼女がいる時にトレーニングセッションへ行きます。彼女はこの採点システムに関しては優れているんです。何故ならどのようにスケートを滑るのかを本当に指導できますから。加速をつける事や無理のない動きを。確信していますが彼女はこの新採点をとても気に入っている事でしょう。そしてスケートはソルトレイクシティの背景にあった落胆から離れる必要があります。スポーツには良いスケーティングと複数の名前が必要です。過去の幾つかの五輪では、特に女子のイベントですが、選手達はやって来て、勝利して、そして去ります。僕達にはミシェル・クワンや、ファンが見て認識できる誰かが必要です。その後に、優れたスケートを見る事になるでしょう。少しのライバル関係も良いですね。

 

ライバル関係といえば、ブライアンには良く知られた現象だ。80年代を振り返るとスケートの歴史において最大のライバル関係の1つが起こっていた。彼と、ブライアン・ボイタノだ。それは、「2人のブライアンの戦い」として知られる1988年のカルガリー五輪において、最高潮に達した。2人ともが素晴らしい技術者であり、また芸術家でもあった。両者が大きなタイトルを取りに行っていた。それは少し、数年後のヤグディンプルシェンコのようなものだった。だがこの比較にブライアンは笑った。

 

B︰ブライアン・ボイタノと僕は10年間、直接対決をしてきました。でも最大の違いと言うと、僕達は実際お互いの事を本当に好きだったんです。当時も、今でも!全ての競技をやり通して、僕達は友人でした。未だに彼と一緒にいつも仕事をしています。多くのショーをブライアンと共にやりました。そしてリー・アンが僕達に何かしらの事を一緒にやってくれと頼むでしょう。観客が喜ぶと思います。

 

ブライアンの競技者としてのキャリアが1988年に終わりを迎え、彼はスティーブ・ミルトンと共著で本を書いた。『オーサー 〜あるスケーターの人生』という題名だ。アブソルート・スケーティングはなんとかそのコピーを掘り起こしたものの、ブライアンはそれを見た時に温かく笑った。そして我々がどこでそんな古いものを見つけ出したのか、興味を持ったようだ。その他の興味深い質問となると、彼がまた本を出す計画があるのかどうか、というものだった。彼には明らかに書くための十分なものがある。

 

B︰多分、その時が来たならば。バンクーバー五輪あたりになるのでは、多分ね。スケーティングにおいて非常に多くの騙し合いや誇張があるでしょう。それについて違う見方をしていると思います。僕は今、次に何をするのかを探している、移行の途中なんです。実際のスケーティングからは降りていく感じです。何故なら毎年どんどんキツくなっていくからです。僕は沢山の振付を行っています。そしてTCSCCの共同監督でもあります。カナダ最大のクラブの1つであり、スケートの歴史で最も重要なクラブでもあります。そして僕達は再建の途中なんです。だから彼らは再度クラブがやって行けるように、僕達を雇いました。つまり僕は今、多くの草鞋を履いている状態で、僕が何がやりたいのかを見つけないといけないんです。

 

彼はビジネスの世界に何年もいたかもしれないが、多くの要求が彼に来ており、最も忙しい人物の一人なのだ。彼の笑顔から、他のやり方は持ち合わせていないと伺える。

 

B︰毎年、自分に言い聞かせるんです。ペースを落とさなきゃ、って…でも、僕のダンス・カードは満杯になるんです!こういった多くの仕事を通して、今でも両方の帽子をかぶる事(2足の草鞋)、今でもショーで滑っていて人々が集まる事が、とても嬉しいです。2倍の仕事量があると、2倍の面白さです。僕はそれを楽しんでいます。そして2倍のお給料がもらえます。肝心要なものからは逃れられません…。

 

欧州のスケートファンにとって肝心な事は、もう一度ブライアンをアントワープで見るという事だ。その経験は、どんな時間でもどんな影響があっても、確実に価値があるものになるだろう。

 

(ブライアンの楽しみとしての2択の質問)

Q︰指導と振付なら?

B︰どちらも大好きです。でも指導はストレスが少なく出来ると分かりました。振付では、僕はいつも全力でやります。いつも次の事を考えます。準備万端で行けるとは思いません。音楽が十分良いものだとは思いません。多分僕はいつも通るこのステップについて、もっと創造的であるべきなんです。それからショーが始まって、僕は幸せです!でも僕は自分の行く過程を試さないといけない。どちらも大好きなんですけれど。指導も振付も、ショーで滑る事も大好きですよ。

 

Q︰COP(新採点)と6.0なら?

B︰COPです。

 

Q︰コカ・コーラペプシなら?

B︰コカ・コーラです!もちろん!

 

Q︰世界チャンピオンと五輪の銀メダルなら?

B︰大変な選択です。うーん…世界チャンピオンを選びます。

 

Q︰2回のトリプルアクセルと1回の4回転なら?

B︰4回転は全く別のレベルなんです。だから僕はそちらを選びます。4回転です!

 

終。

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ブライアン・オーサーさんの2006年のインタビューでした。まだこの頃はプロスケーターとしても出ていて、この時の数年前の2000年グッドウィル・ゲームズにプロ選手としても出ていました。2000年頃からプロ選手権が米国でも開催されなくなり、スタースケーター達はショーを主にやるようになったと思いますが、やはり1980年代に選手として活躍していた世代が最も華やかなスケーターが揃っていて、彼らが年齢が上がり、違う道へ行く時期になったのが2005年前後なのでしょうか。人は必ず年齢を重ねて行きます。寂しいけれど…それでもコーチとして、振付師として、解説者として、様々な場面でスタースケーターの皆さんは今でも活躍しています。

数年前は当たり前に選手だったスケーターがショーで、またコーチで姿を見る機会があり、それも楽しみになってきています。自分と同じ世代の選手が今はコーチとして頑張っている姿は刺激になります。これからのフィギュアスケートを見る1つの楽しみですね。