2012年、羽生結弦選手が過去やスケートについて語っていたものです。②

前回の続きです。

元記事は

こちら

です。

 

シニアデビューの2010-2011シーズンを四大陸選手権の銀メダルで締めくくり、素晴らしいシーズンの終わり方を迎えました。そのすぐ後に東日本大震災が起こります。震災後の心境の部分から訳していきます。

 

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羽生結弦︰過去、現在、そして未来】

(前略)

・前ブログの続きです

 

結弦と彼の家族は大丈夫だった。数日を避難所で過ごしたが、リンクは確実に壊れていた。結弦は震災の経験により心が揺れていた。このようなマグニチュードの災害が自国に起こった時に、スケートをするべきなのかどうか、疑念があった。

「少しずつ落ち着いてきた時、僕はこう感じました。"どうして僕のスケート人生はこんな風なの?"と…その、この災害は1000年に1度の地震が起こった、と言われています。そして僕のリンクは壊れて…僕は、何故僕にこんな事が起きたのだろう?と思いました。何度も何度も。避難所にいた4日間、沢山の事を考えていました。そこを離れてから1週間の間もです。

僕はたびたびこう思います。当たり前にあるものは、常にあると保障されてはいないのだ、と。人がここにいて、その人の家があって、家族がいる。それは当たり前の事じゃない。全ては幸運な事に存在しているものです。何故なら僕は多くの事をほとんど失う所でしたから。そういう風に感じるようになりました。僕はたった17歳ですが、震災が僕の価値観をすっかり変えてしまいました。東日本大震災はそのような大きな出来事だったんです。」

 

結弦は別の都市のリンクへ行かなければならなかった。仙台のリンクは地震で壊れてしまったからだ。彼は小学生の頃のコーチの所に参加した。東神奈川の都筑章一郎コーチの所だ。それでもしっかり練習する事は出来なかった。結弦はスケートが出来なかった間に弱ってしまった筋肉をまた鍛えなければならなかった。また、彼には精神面の問題とも向き合わなければいけなかった。

「しばらくの間、僕の邪魔をしたのは震災の記憶でした。僕はよく視覚化をしようとしていました。頭の中でジャンプへ行く所を思い浮かべる事に本当に集中しました。僕の体型が調整できている時には、全ての事が見えます。360度のイメージ、全てのアングルからです。僕は視覚化をやり続けていたので、地震の時に起こった事を全て、見て、覚えていました。毎回目を閉じると、震災後しばらくの間は、全てが見えていました。」

 

もう一度意欲を見つけ出す事は、少年にとって簡単ではなかった。多くの個人的な苦しみを通り抜けた後に、キツい氷上でのバトルを続けるという事だ。ちょうどその時だった。彼はチャリティ・ショーに招待されたのだ。それは彼に再度スケートをやりたいと思わせた。オフシーズンの間に約60公演のショーに出演し、ショーをトレーニングの機会としていた。週末にショーがある時には、結弦は水曜日か木曜日にリンクに向かった。可能な限り早めに、トレーニングのためだ。彼は経験の多い日本人スケーターや海外のゲストスケーターにアドバイスを求めた。ショーの最中に4回転ジャンプやコンビネーションに挑戦する事さえあった。

「このシーズンを僕は東日本大震災の後にスタートしました。僕は16歳という若い年齢で死んだかもしれなかった、とさえ思いました。」

彼は本の中でそのように書いている。

「震災が起きた、まさにその瞬間、僕はとても怖かったです。ビルが壊れていって、ビルの下敷きになって死ぬのかと恐ろしかった。僕の人生はこんなにも短いのか…と考えていました。でも今、あのようなゾッとする経験の後でも僕はスケートが出来ています。何より、今僕は毎日を有意義なものにしたいんです。全ての普通の日々、全てのアイスショー、全ての練習、全ての試合を、悔いが残らないようにしたい。それこそが、地震の後から僕が一番考えている事です。」

 

彼は2011年の7月に再開したホームリンクでトレーニングを続け、次のシーズンの準備をした。彼は夏の準備が崩されたという事実に対して、どんな同情も受けたくはなかった。

「僕は、"羽生は地震のせいで上手くスケートが出来なかった"と人々が言うのを聞きたくありません。シーズンが始まったら…僕は震災の地域を代表しているというプライドを失くす事は無いでしょう。それでも僕はもっと強くなって、普通の1スケーターとして競技がしたいのです。僕の現状とは関係なく。練習を続けないといけません。ゴールに向けて真っ直ぐ進み、高みを目指す事、それが僕に出来る事の全てです。」

 

そのシーズンは始まり、進んで行った。結弦はネーベルホルン杯で優勝し、最終的には中国杯で4位になった後、ロシア杯で優勝した。彼はグランプリ・ファイナルに進出したのだ。

「僕の強みの1つは、」と結弦は強調する。

「たとえ試合で上手く出来なくても、あまり落ち込まない事です。悪い試合の後には、しっかりと意欲が得られたりします。僕が不満であればあるほど、次の競技会でもっと上手く滑るために練習に集中するようになります。」

 

全日本選手権は年末に開催された。結弦は厳しいスタートとなり、ショートでは4位に終わった。しかしフリーで1位になった後、総合では3位となった。これは彼が世界選手権に行く事を意味していた!

「僕は世界選手権の代表チームに入りました。ついに僕が今シーズンで最も目指していたものに届いたんです。」

彼は振り返ってそう話した。

「僕は今、達成感で満たされています。でも世界選手権に出場するだけで満足するべきではありません。最善をつくしたいです。より高い順位を目指しています。

過ぎ去ったこの1年は、僕達にとって忘れられないものとなりました…巨大な地震が起こりました。僕達スケーターにとってシーズンを始める事は大変でした。地震のために幾つかのアイスリンクでは練習する事が出来なかったのです。でも今、僕はまた演技をする事が出来ています。人々の支援に感謝します。僕はベストをつくす事を続けたいです。僕の全ての心を込めた、良い演技をする事です。」

 

世界選手権で彼は良いスタートが出来なかった。ショートで7位となり、あと一歩でフリーの最終グループに入るチャンスを逃した。(彼はクリーンな4回転トゥループ-2トゥループのコンビネーション、トリプルアクセルを決めたが、ルッツがシングルになった。)

しかし彼はフリーで強くなって戻ってきた。彼の本当に衝撃的な演技の最後に、観客を立ち上がらせたのだ。彼はその夜の2位となり、総合では3位だった。初めての世界選手権で、銅メダルを獲得したのだ。

 

間もなく、彼は長い間のコーチで振付師の阿部奈々美氏から離れる事を決意した。そしてブライアン・オーサーと練習するためにカナダへ渡った。今シーズン(2012-2013)のプログラムは違う振付師によって作られた。ショートプログラムジェフリー・バトル、フリーはデイビッド・ウィルソン、エキシビション・ナンバーはカート・ブラウニングである。

 

(続きます)

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羽生選手の、2012年の時点での過去のストーリーを振り返った内容でした。次からカナダへ渡った当時と、その先に羽生選手が見つめる未来の内容となります。

 

読んでいると、当時の頃の羽生選手を思い出しますね。本人もよくインタビューで「震災があったから出来た、出来なかったと言われたくない。」「僕は被災地代表ではなく日本代表として滑る」と話していたのを、よく覚えています。たった17歳の男の子がこんな風に話せるなんて…と驚いていましたが、今振り返ると、どんな想いでその言葉を話していたのだろうかと…。

周りの大人(メディアとか)に合わせて、話したって誰も責めなかったと思いますし、大抵の人なら20代以上でもそのように合わせてしまうんじゃないかと思いました。

でも羽生選手はそうならずに、自分の意思を断固として曲げませんでした。テレビの求める言葉ではなく、自分の言葉を話したのです。私だったら出来るかな…と考えると、多分メディアが求める言葉を少し話して、早めに終わらせようとする気がしました。被災地出身でやたらその事を質問されたでしょうから…。羽生選手の心は非常に繊細でいて、とても強い。可愛らしい容姿からは想像もつかない意思の強さが、彼のスケートに更に凄みを与えるのかなと、改めて思ったりしました。

でも普通の生活では、どうか穏やかに過ごせていますように…と願うばかりです。続きます。