ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。⑥終。

ブルックリー・ハンさんのインタビュー、今回で最後です。

五輪の経験や、コーチへの感謝を語っています。

 

http://figureskatersonline.com/news/2019/07/17/brooklee-han-looks-back-on-her-figure-skating-career-part-2-of-2/

 

【ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。⑥終】

ソチには沢山の素晴らしい思い出があります。スケートの側から言うと、ショート、フリーのどちらも"ドリーム・パフォーマンス"は出来ませんでしたが、私は今でもソチで私がやった事を誇りに思っています。特にショートが誇らしいです。私は最初の3Tでミスをして、コンビネーションに出来ませんでした。私はそれまで一度も3Tをミスした事はありませんでしたから、それは大きな驚きでした。もしフリーへ進出する望みを持てるなら、3ループをコンビネーションにしなければいけませんでした。フリー進出は、その試合の目標だったんです。3ループへ入っていく時にフォワード・スパイラルがありました。私は、「今がその時だ」と思っていた事を覚えています。

私は、3Tの失敗をやった事を"オリンピック・モーメント"にも出来ましたし、又は方向転換する事も出来ました。そして、それこそが、まさしく私がやった事でした。その時は、ミスした事を残念に思っていました。でも振り返ると、私が素早く考えを換えた事と、そのような非常に大きな大会で平静さを維持出来た事は、誇れる事です。

私はそのプログラムで、どのような才能あるスケーターなのかを世界に見せる事は出来なかったかもしれません。でも私が戦士だという事は見せました。他の道では、そんな事はやらなかったでしょう。

 

明らかに、開会式と閉会式で歩いた事は、私が忘れる事はない2つの出来事です。オリンピック・ゲームの開会式で歩く事は、多くのアスリートの夢なのです。そして、その経験の中に実際に居た事は、信じられない事です。ソチでは、地下の傾斜道を通り抜けて、私達はスタジアムへ入って行き、スタジアムの真ん中へと導かれました。それで、私達は行進していて、そこには何千人もの人々が私達の上方にいて歓声を送っていたんです。それは、ただただ最高に素晴らしい経験でした。

 

そういった経験は別として、他にも楽しくて面白い事が起こりました。

 

開会式の前日、オーストラリアはチームのための大きな歓迎レセプションがありました。その様子はテレビ放送され、私達は全員がアルファベット順にステージで紹介されました。その時の脚本を書いたのは誰であれ、フィギュアスケートに関するリサーチがしっかり出来ておらず、私とブレンダン・ケリーは男子、女子シングル・アイスダンスで競技していると紹介され、ダニエル・オブライエンとグレッグ・メリマンは、ミックスダブルス・アイスダンスで競技していると紹介されました。私達は皆、物凄くエンターテイメント性があると分かり、ナショナルテレビの前で笑い転げないように、ベストを尽くしたのです。

 

五輪開会式の当日、ダニとグレッグ、ブレンダン、そして私はボルショイ・アイスホッケー・パレスの前でグループインタビューを受けないといけませんでした。でもそれは、その日の私の練習直後にスケジュールが入っていました。私のコーチ、セルヒィと私は走って五輪村へと戻り、出来るだけ早く五輪開会式用のユニフォームに着替えました。でも私は既に遅れていました。オーストラリアの五輪委員会のスタッフが、チーム用の自転車に乗っていったらどうか、と提案しました。そして私の答えはこうです。

「私は自転車には乗れません。それを学ぶ時と場所だとも思いません。」

その代わり、リンクまで全力で走って行きました。マイクの問題に感謝をしています。そのおかけで、そこまで遅れる事にはなりませんでした。その時から5年が経ちましたが、私は未だに自転車の乗り方を知らないんです。

 

別の日に、私は選手用のダイニングホールでランチを食べていました。そして私はジェイソン・ブラウンの所へ走りました。2011年から私はジェイソンを知っていたんです。私達がジュニアの国際大会に出場し始めた時から、友達でした。

五輪シーズンの始めに、私達は二人ともネーベルホルン杯に出場していました。私がオーストラリアの五輪枠を確保した大会です。

 

(サイドストーリー︰ジェイソンの両親、スティーブとマーラ・ブラウンは、私のフリースケートの間、私の母と一緒に座っていて、母の手を握っていました。その事にとても感謝しています。その数ヶ月後に、私は2014全米選手権の男子フリーをボストンまで見に行きました。私はその頃コネチカットで練習していたので、願いをかけて戻りました。その年は私達二人の家族にとって特別なシーズンでした。) 

 

そして私はネーベルホルン杯でジェイソンの極めて素晴らしい、今ではアイコニックな"リバーダンス''のフリープログラムを見た後に、私は彼に言いました。「ソチでの貴方を見ているようだった」と。

それに彼は次のような言葉で答えました。

「心からそうなって欲しいよ。僕の夢だから。でも、まだ僕の番じゃないね。他の男子選手達がとても良いんだ。」と。

それで、彼は私を五輪村のダイニングホールで見つけた時に、

「君は"私が言った通りでしょう?"と言わないの?」と言いました。

 

五輪の開会式から私のソチでの試合までの間に、長い休みがありました。そして私達には1日に30分の練習時間しか与えられていなかったんです。ですから私のコーチ、セルヒィと私はスケジュールを調整して、1週間のトレーニングのためにドイツのオーベストドルフへ行きました。ソチからミュンヘンへ飛んでいく時、カロリーナ・コストナーが同じフライトに乗っていました。彼女は当時、オーベストドルフでマイケル・ハスと練習をしていたのです。私達がミュンヘンに到着した時に、セルヒィと私がオーベストドルフへ行く事を、カロリーナは確信したようでした。

それから私達は全員が練習場所に到着しました。彼女は何もかもが信じ難いほどでした。1週間カロリーナと同じ氷上で練習が出来た事は、素晴らしい事でした。彼女の忍耐に関する事は、励みになりました。彼女が五輪の準備をしていた時に、氷を共有出来た事はとても嬉しかったです。

 

オーベストドルフで練習していたエリートスケーター達の全員が、男子フリーの夜は遅い時間のセッションを取っていました。ドイツにいる皆はピーター・リーベルスにとても興奮していました。彼は素晴らしいショートプログラムを滑ったのです。そして勿論、チェコのスケーター、オーベストドルフで練習していたトマシュ・ベルネルです。皆がスコアを携帯電話でチェックしていました。そして、ついに誰かがパソコンのストリームに登場したら、ボードの所に集まりました。その夜に、生産的なセッションか出来た人がいたとは思えませんね。

 

ショートダンスの試合があった夜に、セルヒィと私はソチに飛んで帰って、私達は試合の最中にソチに到着しました。私達はスーツケースを受け取って、それから私は本当にオリンピック村に帰りたかったんです。でも、セルヒィは何か見たいものがあって、私は彼を待たないといけませんでした。私はレストランの外に出て待っていたのですが、そこには巨大なスクリーンのテレビがあったんです。ダニとグレッグが試合で氷上に出てきた時に、私は座りました。私は彼らの全ての力を注いだショートダンスを見る機会が出来て、とても嬉しかったです。ショートはシーズン始めにトラブルがありましたから。そしてフリーに進出しました。私はセルヒィが私を待たせた事さえも許しますよ。

次の日に、私は彼らがフリーダンスに出場している時に、練習をちょうど終えた所でした。私は氷上から出て行って、スケーターラウンジへ行きました。それで見る事が出来たんです。米国のチームリーダーの1人のキャシー・スラック(悲しい事に、彼女は亡くなりました。)は、セルヒィのとても良い友人であり、常に莫大な私へのサポートをしてくれました。彼女がやって来て私の練習の事を話そうとしました。でも私はとてもストレスを感じていて、テレビに集中していたんです。そのために、殆ど何も言えませんでした。その後、とても悪かったと感じたものですから、何度も謝りました。ところが彼女は私の心配事を完璧に理解していたのです。

 

私がショートプログラムの前の6分間練習のために、今まさに氷上に出ようとした時、私の友人のイザドラ・ウィリアムズと私は、氷上へと出て行く準備が整って、ドアの所に立っていました。イザドラはブラジル代表として滑っていて、私の後に滑った選手です。

私達はお互いに見合って、そして彼女は言いました。「大変だね、私達はついにここまで来たんだね」と。

それは、私が五輪の試合に出ようとしたその時の、本当に私の心に響いた五輪のモーメントでした。私達はお互いの健闘を祈り、氷上へ出て行きました。それはとても小さなモーメントでしたが、そのモーメントというのは、私が思うに、五輪という存在の意味の、全てであるという事です。

 

女子ショートプログラムは、夕刻のとても遅い時間に終わりました。そのためにフリーの抽選の後、真夜中くらいまで五輪村の自分の部屋へ戻りませんでした。そして次の日の朝、午前7時にフリーの練習があったんです。私は4、5時間ほど眠って、次の朝の練習の後に部屋に戻って眠りました。私のルームメイトでショートトラックのスケーター、ディアナ・ロケットは何度か私に話しかけようとしましたが、私は全く反応出来ませんでした。あれは恐らく私の今までの人生の中で最高の昼寝でしたね。

 

ディアナは私のフリーの次の日に競技に出場しました。彼女には早朝の練習があって、そして全員が私に、理由もなく、競技が終了して部屋に戻ったらディアナを起こすように、と指示しました。繰り返しますが、私達の競技はとても遅い時間に終わったので、真夜中の少し前まで五輪村へは到着出来なかったんです。私は部屋に入って行って、出来るだけ静かに自分に残されたエネルギーを使う準備が出来ていました。

部屋の電気が全て消えて、ディアナがベッドで眠っている姿を見つける代わりに、彼女とショートトラックのコーチ、伝説的なアン・ジャンがベッドに座りながら、私を待っている姿がありました。彼女達は女子シングルの結果の賭けをしていたんです。そしてどっちが正しいのかを口論していました。それで、彼女達はその解決のためにも私の帰りを待っていたんです。私は彼女達に、"もし私が結果を決められるなら、カロリーナが優勝でした。"と言いました。この答えに彼女達は満足していませんでしたが。私はスケートに関するツイッターを調べる事を命じられた代わりに、朝には彼女達を帰らせました。私はディアナが次の日に堅実なレースをしたと、伝えられる事が幸せです。ただ、彼女達の賭けが解決されたとは思いません。

 

私のソチでの競技が終了した後に、閉会式まで2日半くらいあったのですが、トマシュ・ベルネルが世界選手権には出場する予定はなく、むしろソチで引退する、という噂がありました。私は何年も彼に憧れていました。彼とオーベストドルフで練習するのが大好きで、ですから明らかに、遅すぎる状態になる前に彼と写真が撮りたかったんです。ダニとグレッグ、トマシュの良い友人に、トマシュを探す助けを頼むという、簡単な方法を取る代わりに、自分で走り回って彼をつかまえると決めました。

結局、彼がチェコの複数のメンバーと一緒に座っている所をダイニングホールで発見しました。スロバキアのホッケーチームもいました。私はかなり確信を持っていますが、彼らは全員がNHLのプレーヤーでした。私はテーブルへ歩いて行って、トマシュに写真をお願いしました。そこにいた全員が困惑していました。五輪を通して、誰もがホッケープレーヤーに写真をお願いしていたのです。(私の一番のお気に入りは常に米国のペアスケーター、マリッサ・カステリと、6フィート9インチの身長があるボストン・ブルーンズのズデノ・チャラです。)

彼らは私を二度見しました。トマシュと写真を撮りたがっている私のことを。彼らとではなく。最後には彼らは私のために写真を撮ってくれましたが、少し困っていたようでした。

 

カタリーナ・ヴィットはドイツのテレビでフィギュアスケートの取材のためにソチにいました。ある日、彼女がソチの私達の放送ネットワークに関して言及した、という事が起こりました。セブンネットワークという放送局で、彼女はいつもボクシング・カンガルーを欲しがっていたんです。ネットワークは私に連絡してきて、私が豪華なボクシング・カンガルーのぬいぐるみを、彼女に渡す栄誉を受け入れてくれるかどうかと聞いてきました。それは私が断る依頼ではありませんでした。そういう訳でソチでのエキシビションの後に放送センターへ行って、カタリーナにボクシング・カンガルーを渡しました。

 

閉会式の間、ダニ、グレッグ、ブレンダン、そして私は全員で一緒に行進して、とても良い時間を過ごしました。それまでの経験を話したりして、私達は自分達がどこにいるのかに関して注意を払っていませんでした。そして全く突然に、私達はオーストリアのチームの真ん中で、私達だけしかいないと気付きました。私達は笑って、オーストリア人達と共に歩き続けたのです。

それは本当に素晴らしかったです。私達は2013年ネーベルホルン杯で一緒に出場資格を獲得しました。オーストラリア代表として五輪枠が無い状態で試合へ行き、枠を得て戻って来た。彼らがやって来た全ての鍛錬をネーベルホルン杯でぶつけたのです。私達は何年もお互いを非常にサポートし合って来ました。私は彼らをチームメイトと呼べるようになっただけでなく、友人と呼べるようになった事がとても幸運です。

 

あと2つのソチの次のシーズンの思い出で終わりにします。

 

2014年ネーベルホルン杯の女子フリープログラムは競技の最後のイベントの1つでした。沢山の競技者達が観客席にいて、歓声を上げて試合を見ていました。私が子供の頃にアレクサ・シメカとコネチカットのシムズベリーで練習をしていたんです。彼女とクリス・クニエリム、ジェイソン・ブラウンが皆、観客席に座っていて、彼らが手に入れた赤、白、青のアクセサリーで全身を着飾っていました。私が6分間練習のために氷上へ出て行くと、彼らはまるでクレイジーに私を応援してくれました。観客を見上げるのが、とても楽しかったです。彼らはUSAのベスト選手達で、オーストラリア代表の私を応援しているんです。数人か、それ以上の人々は混乱していたと思います。

 

2017年10月、私はフィンランディア杯に出場しました。スケジュールの矛盾のために、私のメインコーチは来る事が出来ませんでした。それでエフゲニー・ネミロフスキー、私の振付師とコーチが、ボランティアで私と共に来てくれました。ダラスのエリアで仕事をするよりも先んじて、エフゲニーはガリーナ・ズミエフスカヤとウクライナで仕事をしていた事がありました。オクサナ・バイウルやヴィクトール・ペトレンコのプログラムの振付をするためでした。

そのような活気のあるウクライナでのコーチングチームにも関わらず、エフゲニーは生徒達と一緒に試合へ行く事は殆どありませんでした。フィンランディア杯は、初めてエフゲニーが国際試合に行った場所でした。1990年の初期~中旬の頃からです。エフゲニーと共にリンクへ出て行く事は、素晴らしい経験でした。

アレクセイ・ミーシンとニーナ・モーザーが生徒を連れてその試合に来ていました。彼らがエフゲニーを見た時、彼らはハローと言うためにこちらへやって来ました。そして彼と握手をしました。ミスター・ミーシンはリンクへ来て、私の練習を見る事さえしてくれました。それはまるで、ビートルズと一緒にコンサートへ出て行くようでした。

私は彼らがエフゲニーに対して抱いている、尊敬の念の全てに驚かされました。その事は本当に私を立ち止まらせました。そして私は、エフゲニーがキャリアの中でコーチとして、振付師として成してきた事の全てを理解しました。私はもう一度エフゲニーを国際的なステージへ連れて行けた事が、とても嬉しいです。私が一生忘れる事の無い経験となるでしょう。

 

 

※写真はfigureskatersonlineさんの記事中よりお借りしました。

 

私の家族、友人、そしてこのクレイジーな旅路を通して私をサポートしてくれた、ファン達に感謝します。素晴らしい思い出は全て、貴方達のおかげです。

 

 

終。

 

 

 

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