ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。⑤

ブルックリー・ハンさんのインタビュー、元記事は2つに分かれていますが、今回は後半の記事の続きです。

 

http://figureskatersonline.com/news/2019/07/17/brooklee-han-looks-back-on-her-figure-skating-career-part-2-of-2/

 

【ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。⑤】

 

2009年の秋、ニコライ・モロゾフが彼の生徒全員を連れて、コネチカット州シムズベリーにあるコネチカット国際スケーティングセンターへやって来ました。五輪シーズンに備えるためです。ニコライは以前にシムズベリーで荒川静香と練習をしていて、彼女を2006年五輪での勝利へ導きました。それで彼は2010年にも同じ"シムズベリー・マジック"が起きる事を願っていました。国際的なシーズンが始まる前に、彼はショーを開催する事を決めました。それで彼のスケーター達はプログラムを見せなければいけなかったんです。少数の地元スケーター達も滑るために招待されました。私自身も含めてです。

 

ショーの最後に、私達はグループ写真を撮影しました。今でも大切にしている写真です。素晴らしいスケーター達とアイスを共有出来た事はとても光栄でした。安藤美姫ヴァレンティーナ・マルケイ織田信成、ロマン、アレクサンドラ・ ザレツキー組、キャシー、クリス・リード組、村上大介、そしてハビエル・フェルナンデス。私がこういった素晴らしいスケーター達と、同じ試合でいつか競いたいと夢見ていた頃、実際それが起こるだなんて思ってもみませんでした。でもたった3年後には、彼らの多くと共に、試合に出場していたのです。

 

私が国際試合に出場し始めてから、初めて出会った人の1人が私のチームメイト、ブレンダン・ケリーでした。ブレンダンと私は、何年にも渡って数え切れない位の試合に一緒に出場しました。2度の世界ジュニア、1度の世界選手権、7度の四大陸選手権、そして2014年の五輪です。

2010年、ブレンダンと私は2試合連続でJGPシリーズの試合に出ました。最初は英国のシェフィールドで、2回目はドイツのドレスデンでした。ドレスデンでの男子ショートプログラムの朝、私がホテルの部屋を出て行った時に、ブレンダンがホールに走って来ました。彼は朝の練習から戻って来た所でした。彼は私の所へ走って来て、大喜びで殆ど浮ついた様子でした。すぐに彼は、私の顔にビデオをグイと出して来たのですが、その朝、彼は初めてトリプルアクセルを綺麗に降りたのです。彼は月まで飛んでいくほど大層に幸せそうでした。彼にとって狼狽する事といえば、私がたびたびこの話を彼に思い出させる事です。彼の熱狂と興奮は、可愛らしかったです。

 

2011年、シェフィールドでのJGPで初めてティム・ドレンスキーと一緒に参戦して、会った時の事を覚えています。ところが、彼は覚えていないんです。そして私達の"公式な"出会いは、2012年ミンスクでの世界ジュニア選手権という事は、確かです。場所がどこであろうと、実際私達は会ったんです(私は自分が正しいと思いますが)。私はすぐにティムの美しいスケーティング、彼の天性の音楽解釈にうっとりしたのを覚えています。6年後にもう少し、彼を知りました。私達は二人ともダラス・エリアでトレーニングをしていて、彼は私の母と私と、一緒に住んでいました。ティムのキャリアを通して、彼の事を良く知る事が出来て、とても嬉しいです。彼はとても良い友人であり、私が頼んだのですが、彼はベストな、年上と年下の双子のブラザーです。

 

2012年ネーベルホルン杯キーガン・メッシングに初めて会いました。その1週間の間に、私達はかなり色々と話して、友達になったんです。私のキャリア・ベストのショートプログラムの後に5位になって、私はフリーの最終グループに入っていました。私は自分を落ち着かせようと頑張っていましたが、ウォームアップで未来の世界チャンピオン、ケイトリン・オズモンドや未来の五輪チャンピオン、アデリーナ・ソトニコワと一緒で、私は少し圧倒されてしまいました。6分間練習に私達が入っていく前に、私は少し後ろに下がってキスアンドクライの裏側の方へ行きました。キーガンは客席に座っていて、私が明らかに何かを感じている様子を、私の頭上から見たんです。それで彼は私に話しかけるために降りてきました。彼は私の目に恐怖があるのを見た後に、幸運を祈ると言ってくれました。

そして加えて、「もし君が緊張していたら、ムース(ヘラジカ)の事を考えるんだ。彼らには角があって、顎の下におかしな喉ぶくろがある。彼らは、すごく面白い見た目をしてるんだよ。」と。

キーガンのムースは私を笑わせてくれて、最終的にリラックスして出て行って、別のパーソナル・ベスト・プログラムを滑りました。

毎回ネーベルホルン杯では、それからはいつでもキスアンドクライの裏へ歩いて行って、ムースの事を考えます。(ムースに関する事と言えば、キーガンは2018年韓国での五輪でカナダ代表で出場しました。)

 

シニアに上がった2012-2013シーズンの間は、私が子供の頃の、沢山の憧れの選手と共に試合をする素晴らしい機会がありました。私の初めてのシニアの試合は、日本の大阪での2013年四大陸選手権でした。私の練習グループは2人のオーストラリアの女子選手、シャンテル・ケリーと私、そして日本人の浅田真央村上佳菜子、そして鈴木明子と一緒でした。私がとても若いスケーターだった頃から、この素晴らしい女性達に憧れていました。彼女達と同じ試合に出て、練習で氷上で一緒になる事は、驚愕の出来事でした。とても近くで、個人的に真央のトリプルアクセルを見る事は、とてもクールでした。そして明子と佳菜子のスケートへの愛を、まさに感じるチャンスを得た事はとても嬉しかったです。

私達の練習の時のメディアは、正気では無く狂ったほどでした。ジャッキー・ウォン・ロッカースケーティングが「フラッシュの音がマシンガンの様に鳴っている」と言っていましたが、彼が言った事は嘘ではありませんでした。それからは、あのような経験をしていません。日本で、日本人選手達とスケートをするといったような事はです。それは確かに、なかなかのシニア競技への歓迎でしたね。

 

セルヒィと私の母、そして私はオンタリオ州ロンドンでの2013年世界選手権のために、トロント空港に到着しました。他に沢山のスケーター達も一緒でした。トロントからロンドンへ私達全員を乗せていくバスは遅れていて、私達は皆座って待っていました。その多くのスケーター達は何年も私が憧れていた人達で、カロリーナ・コストナーもいました。私は(今でも)かなりシャイだったので、私は母とセルヒィと一緒に隅っこの方に座っていたのですが、全く突然に、見上げたらカロリーナが私の方へ歩いて来たんです。彼女は手を私の方に出して握手をして、こう言いました。

「こんにちは、カロリーナです。私はイタリア代表です。」

私は顎を床の方向から上げるまでに、数分かかりました。私ははっきりと確実に、何か明瞭な返事をする事が、全く出来ませんでした。でも私はそれから何年後かに、その時の事を取り返した、と思います、願わくばですが。

私は十分に幸運だったので、2014年五輪への準備のために、オーベストドルフでカロリーナと練習する事が出来たんです。それと、2016年ザグレブゴールデンスピンで、彼女が競技復帰する姿を目撃しました。カロリーナは常に、そしてこれからも、私の憧れのスケーターであり、1人の人でもあります。そして私は氷上で彼女を見習って、努力して練習に励むのです。

 

続く。