ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。④

ブルックリー・ハンさんのインタビュー、続きです。元記事は2つに分かれていて、後半に入ります。

④からは、ブルックリー・ハンさんがスケートを始めた頃から五輪の経験など、スケート人生を振り返ります。

今回は、スケートを始めたきっかけから子供時代、素晴らしいコーチとの出会い、思い出深い試合など。

 

http://figureskatersonline.com/news/2019/07/17/brooklee-han-looks-back-on-her-figure-skating-career-part-2-of-2/

 

【ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。④】

 

H︰私のスケートのキャリアは、私の5歳の誕生日前の辺りから始まりました。私がマサチューセッツ州ダンヴァーズの家の近くにある地元のリンクでスケートを始めた時、私のスポーツへの愛は早くから出来始めました。子供として私はとても幸運でした。私の両親がスポーツや芸術の全てのマナーを私に触れさせたのです。

私の父はオーストラリアの若手騎手のリザーブ・チャンピオン(第2位)で、私の母は米国の馬術チームで練習していました。ですから私は自然と馬の周りにいたんですよ、基本的に、生まれてからずっと。それから両親は私をバレエやオペラに連れて行ったりもしました。両親が私を連れて行ってくれた所で一番好きだったのは、一体どういう訳か、スコット・ハミルトンのスターズ・オン・アイスのショーでした。

私の母は祖母と一緒にテレビでフィギュアスケートを見て育ちました。祖母が子供の頃には池でスケートをしていたんです。でも私の両親はどちらも子供の頃にスケートに関わる事はありませんでした。

 

母が私に話すのが好きだった話は、私が2歳の頃の話なんですが、私達は友人の家にディナーパーティーのために集まっていたんです。子供達は一部屋に皆がいて、テレビを見ていました。そして全く突然に私が別の部屋へ入って行ったら、誇らしげな告知がありました。

「スコッティが出てる!」と。

かなり困惑しました。大人達全員が、どうした事か私が話していた事(アイスショー)を見るために、テレビの部屋へ入って行ったのです。ほら、見て!と。スコット・ハミルトンがテレビでスケートをしていました。

その後に、両親に私をスケートへ行かせるための行動を起こさせるまで、そんなに時間はかかりませんでした。最後には、両親達は仕方なく聞き入れてくれ、スケートを習うために私を地元リンクのクラスへ入学させました。

 

私は氷に乗った始めの頃の思い出はあまり有りません。母が私を公的なセッションのために連れて行ってくれたリンクの1つは、少し傾斜があったんです。ですから私は前方のスウィズル(ハの字で楕円を描くやつ)を、とっても頑張っていました。片側まで上がって行って、それから反対側へ飛ぶんですよ。山を降りるみたいに。私の母は南極地用ののフリースパンツを作ってくれました。膝にもう1つの極地用フリースを縫い付けて、お尻には詰め物としてフリースを入れて。

結果として私は一度も転倒を怖がりませんでした。私は他の子供達が転んだ時に何故泣くのかが分からなかったんです。私は転ぶ事が痛くなかったからです。私が6歳くらいの時に、両親にこう告げたんです。

「私は乗馬とスケートでオリンピックに行きたい。そしてカーネギーホールでバイオリンが弾きたい。」

でも私は一番スケートに集中していました。若い時にやらないといけないからです。

 

私はスケートの最初の頃の段階では、まあまあ平均的なペースで上達していって、ニューイングランドのローカルな試合で良い成績を取りました。でも、殆どの子供達と同じように、シングルアクセルを習い始めた時に少しスランプがありました。殆どの子供達と似ていなかった所は、シングルアクセルを習得するまでに3年かかった事です。明らかにその数年間は私にとってイライラするものでした。

振り返ると、私は何故、どのように挑戦し続けたのか、全く分かりません。私は断固とした意思があり、頑固な小さい子でした。私の予想では、上手く行ったり、ドテッと転んだり、そういう事があって、シングルアクセル1つを降りるために3年かかる事が広い世界からの大きなサインだったのです。それは、フィギュアスケートというのは私にとってはスポーツではなかった。でも私はやり通しました。

 

ついに私がシングルアクセルを覚えた約1年後に、私のコーチはその時に指導から離れる事を決めました。彼女の娘さんを育てるためです。それから1年くらい、一緒に練習をするコーチを見つける事に苦労しました。結局は、私と私の家族は十分行動して、コネチカット州シムズベリーにあるコネチカット国際スケーティング・センターでの1週間のキャンプへ行く事に同意しました。それから参加資格のあった低いレベルの試合に出て、スケートをする事が出来ました。

そのシムズベリーのキャンプで、私はセルヒィ・ヴェイパンに出会いました。その人は、2007年から2016年までコーチをしてくれて、私をシングルアクセルと下手くそな2回転だけの若いスケーターから、3年後にはJGPに出場する選手にしてくれました。やがては、2014年のオリンピックです。私はそれだけの事をどのようにやってのけたのか、未だに皆目検討がつきません。でも多分私の意志の強さが、また困難を乗り越えさせたのでしょう。

 

2016年に私とセルヒィの師弟関係は終わりを迎えて、私はテキサスのエリア、ダラスへ移転しました。ここテキサスでは素晴らしいコーチ達と練習する事が出来て、ずっと幸運続きでした。セルヒィの子供時代のコーチ、エフゲニー・ネミロフスキーも含めてです。

 

米国で育ったのは別として、私はいつもオーストラリア代表で国際試合に出たかったんです。私の父は乗馬の国際試合でオーストラリアを代表するチャンスが一度もありませんでした。だから私はいつも彼の目標を果たしたいと思っていました。氷上の競技で、乗馬ではないんですけれども。

 

私のキャリアで出会った人々や作った友達との素敵な思い出が沢山あります。最も思い出深いものが色々あります。

私が8歳の時に、私の家族はオーストラリアのアイスダンスのチャンピオンをホストしました。ナタリー・バック、トレント・ネルソン・ボンドです。彼らは、私達が住んでいた場所から30分ほどの所にあるリンクで指導をしていた、ナターリア・ドゥボワとトレーニングをしていました。この事により、私はしばしばナターリアと練習をしていたのです。それは信じ難い経験でした。特に8歳の子供にとっては。彼女は私の表現する事への愛と、プログラムを通して物語を伝える事に、とても影響を与えた唯一の人でした。(私は未だに氷の向かい側から叫んでいるのが聞こえます。"ブルーーックリン!貴方は花を摘まなくてはいけません、そしてその花を誰か贈るのです!")

 

夏の間、ナターリアは私に彼女のプライベート・アイスでスケートをさせたがりました。素晴らしく名誉な事でした。しかしながら、当時ナターリアは4組のシニアの国際試合に出るダンスチームを抱えていました。ナタリーとトレント、ローレン・ギャラー=ラビノウィッツ、ディヴィッド・ミッチェル組、トップの中国ダンスチーム、そしてトップのロシアのチーム。

コンパルソリー・ダンスとオリジナル・ダンスがあった日々に時が戻りますが、新シーズンのコンパルソリーの1つがミッドナイト・ブルースでした。ミッドナイト・ブルースは見る方にとっては素晴らしいパターンダンスです。コーナーでブルース・チョクトーがあって、スマートに終わります。必然的に、私はコーナーにいました。あるチームがパターンをやっていたらボードにくっついて、フリーレッグが私の頭をかろうじて避けるほどに、出来るだけ寄りかかっていました。言うまでもなく、精神的に疲弊する夏でした。

 

私はセルヒィがオハイオからコネチカットに引っ越してきた後すぐに、セルヒィと練習を始めました。私の友人のエリザベスと私は、彼にとってコネチカットでの最初のフルタイムの生徒でした。氷上でもオフアイスでも、セルヒィはとても張り詰めた雰囲気の船の舵取りをしていました。理解出来ます。私とエリザベスは他の誰にも、そしてお互いにも練習の時間は話しかけなかったのです。

私がセルヒィと練習をするようになってから1年と少し経ったある日、エリザベスと私はその日の最後のセッションがあり、私はレッスンをしていました。私が自分できちんと立つ事に挑戦してから1ヶ月経った時、ダブルアクセルを片足で降りました。エリザベスはそれを見て、セルヒィの所へ行き、私にハグをしていいかどうかを聞いたんです。私が練習をし続けてダブルアクセルを習得する事が、どれほど苦労したのかを、彼女は知っていましたから。勿論、彼はイエスと言って、私達はグループ全員で氷上の真ん中でビッグハグをしました。

 

セルヒィと練習をし始めてから少し後に、私達は二人ともが試合で緊張しているのに気が付きました。それは良いコンビネーションではありませんでした。理想的なのは、二人の内一人が落ち着いて集中している事です。

私達はこれも知っていたのですが、セルヒィは縁起をかつぐ人なんです。それで私の母が、彼女にだけある才能が備わっていて、セルヒィのために新しい迷信を作りました。彼女は小さな牛がついた古い靴下を持ってたのですが、それを取り出して、牛が何故ラッキーなのかというリストを書き上げたのです。

私の次の試合の時に、彼女がそれをセルヒィに渡したら、セルヒィは笑って言いました。我々には運は必要ではありませんでした、と。十分皮肉な事には、私はその日の試合でかなり悪い演技でした。私の母が靴下は持っていたのかと聞いたら、彼はノーと言いました。次の日に、私はずっと良いプログラムを滑りました。私が氷から出た時に、セルヒィはポケットから牛の靴下を取り出しました。その時から、牛は公式に幸運の印となったのです。

 

何年かの中に、私のお気に入りの幸運の牛の"前兆"が、いくつかあります。2013年のネーベルホルン杯キスアンドクライに、牛柄のカウチが使われていました。その試合は私がオーストラリアの五輪枠の資格を得た試合でした。彼らはショートプログラムの朝までそのカウチを使っていなかったんです。私がカウチを見た時、涙が溢れました。素晴らしい1週間になるだろうと分かったからです。

その他のお気に入りはラトビアでありました。2013年11月、ヴォルヴォ・オープン・カップのためにリガに行きました。その頃はラトビアではLatvia Latを通貨として使っていました。私がリガに到着した後、酷い練習をしてしまったんです。それで私はその試合に対して良い感覚がありませんでした。

セルヒィ、母、私のトレーニングメイトでブルガリアのテオドラ・マルコワ、そして私の全員で観光に出かけて、私達は車を駐車ガレージに停めました。私達が駐車料金を払う時に母がコインを取り出した時に、2 Latコインに牛があると母が言いました。全く突然に、私の直感的な悪い予感は消え去ったのです。私はその試合で優勝しました。

 

 

続く。