ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る③

ブルックリー・ハンさんのインタビュー、続きです。インタビュー元記事は2つに分かれていて、前半のラストです。

F→フィギュアスケーターズ・オンライン

H→ブルックリー・ハンさん

 

http://figureskatersonline.com/news/2019/07/06/brooklee-han-looks-back-on-her-figure-skating-career-part-1-of-2/

 

F→練習で起きた左足の怪我の回復具合はどうですか?この前の2月にカリフォルニア、アナハイムでの2019年四大陸選手権フリースケートの前に棄権を余儀なくさせたものです。

 

H→四大陸選手権から家に戻った後に、私はMRI検査を受けて、すぐに私達はアキレス腱が完全に断裂していたのを発見しました。最初の怪我から1週間後に、腱の回復のための手術をしました。私は3週間ほど複数の枕で脚を上げた状態で、リビングルームにて座って過ごしていたんです。

手術から6週間後に、私は歩き始める事を許可されました。それからまた3週間後、私は「物凄く」ベーシックなスケーティングをいくつか実施する事を許され、そして4月19日に初めて試験的に氷上へ戻りました。6月の中旬に、私は走る事を許されたんです、素晴らしかったです。動きの範囲や安定性は大体は完全に戻りました。でもまだ腓腹筋を発達させる事に取り組んでいます。それは私がほとんど体重が無かった頃に、完全にやせ衰えてしまいました。

今は氷上で全ての複雑なターンをどちらの足でも出来ますし、右足でスピンが出来ます。私は今、左足でまたスピンを出来るようになるために、十分な強さを得る事に取り組んでいます。私は現在シットスピンのバリエーションと、まずまずの悲しい形のスクラッチスピンしか出来ないです。それは確実に旅路でした。私は自分が経てきた過程と、多くの人々からの溢れるほどのサポートの全てに、とても感謝しています。

 

F︰貴方の新たなスケートの目標について話しましょう。

 

H︰1年と少し位ですが、ローガン・ギュレッティ・シュミットと私は、私が競技から引退したら、私の全てのパターンダンスをテストする考えを、ちょっと話したりしていました。アキレス腱が断裂した後、それは私にとって完璧な道に見えました。少しずつスケートに戻るのです。

私は11歳の時に、ダンスの予備試験に合格した事があったんです。それで私達はプレ・ブロンズ・パターンからやり始めました。来週には私はブロンズとプレ・シルバー・ダンスの両方をテストします。ダンスは明らかにどんどん難しくなります。レベルが上がるに連れて。それはリハビリにはとても良くて、更にもっと難しいスケート要素をレパートリーに戻す事を手伝ってくれました。

また、私に全く新しいスケートの見方を与えてくれたのです。長い間、私のスケートは主にジャンプやスピンの回転の軸を取ることでした。一方で私が練習していた時には、スケーティング技術というのは優先的ではなかったんです。

ダンスのテストをすると、私が10年来も抱えていた悪い癖に直面する事になり、本当に自分のスケーティングを分析しました。シングルのスケーターとしては、右方向のアウトサイド・ツイズルが左方向のものよりもずっと弱くても、そんなに問題ではありません。でもダンスでは、大きな問題です。そして「なるほど、それなら良いツイズルを使おう」と言う代わりに、良いものを分析します。そして何が違うのかを理解しようとします。そうしたら弱い方も成長出来ます。

私は完全に"おたく"なので、興味深くて楽しいプロセスを見つけます。そして私はローガンと共にスケートを本当に楽しんでいます。昨シーズンは私の学校のスケジュールもあって、授業の前に氷上練習をしないといけませんでした。それと彼は大抵複数の生徒を抱えています。その内で授業前に私と一緒に氷上練習をするのは1人だけでした。朝の6:45に女子シニアのフリーを通しでやる事は、あまり楽しいものでは無いです。だから彼の早朝のサポートには物凄く感謝しています。

 

F︰貴方がインターンとしてインターナショナル・フィギュアスケート・マガジンで行ったインタビューで、一番のお気に入りは何でしょう?その理由は?

 

H︰良い質問です!そして正直に言うと、全く見当も付きません。私が楽しんで行ったインタビューが、沢山あります。1992年ペア五輪金メダリストのナターリア・ミシュクトゥニクへのインタビューは、確実にハイライトでした。彼女はあまり多くのインタビューに応えていません。ですから私のインタビューを受けてくれた事が、とても名誉な事でした。その仕事をする時はとても緊張しました。台無しにしたくなかったからです。彼女は私達のスポーツにおいて素晴らしい伝説的な人です。彼女のストーリーの全てを聞く事は、本当に凄い事でした。

 

私が楽しんだ別のインタビューで最近のものだと、オーストラリアの兄妹ピーターとリズ・ケインのものです。私は数年ほどピーターとリズ、どちらも知っていました。彼ら2人と一緒に話す機会を得て、アマチュアとプロのストーリーを聞く事は、とても楽しかったです。

 

それから、2018年全米選手権の前のブレディ・テネルのインタビューも本当に楽しみました。彼女はキャリアの中で素晴らしい位置にいました。まさにスターダムの崖っぷちにいて、この後にどうなるのか、という直前に彼女と話す機会があった事は面白かったです。その時というのは、彼女のキャリアにとって最大の、最も重要な試合でした。

 

ペギー・フレミング・トロフィーは恐らく、私が担当した中では一番のお気に入りのイベントです。見ていてとても楽しいイベントでした。スケートへの沢山の喜びと愛が、そしてスケーターの演技の中には演技表現が見られたからです。全員がそのイベントと彼らのスケーティングに関して、インタビューでは素晴らしい答えをくれました。全ての素材を使う事が出来なくて、とても残念でした。

今年はそのイベントを見に行けなくて、寂しかったです。そのイベントの楽しいビデオをインターネットで色々探して、私が見つけたものはただ素晴らしかったです。もし貴方が将来にブロードモア・オープンを見に行く機会があるなら、物凄くおすすめですよ。

 

2017年、ブロードモア・オープンで私はジェレミー・アボットに短いインタビューをする好機を得ました。彼が引退を表明した後の事です。スケジュールの関係で、インタビューは慌ただしかったです。では、もし貴方が気づかないでいるとしたら、私はおおよそ150センチなんです。そしてジェレミーは私より25センチも背が高いですから、歩幅が私よりとても大きいんです。ブロードモアはコロラド・スプリングスにあって、標高が1839メートルです。つまり、ただ私が走ってジェレミーに追いつくだけではなく、私は高所で走っていたんです。

ワールド・アリーナで階段を上りながらのインタビューでは、そのインタビューの書き起こしで録音を聞き返した時、私の声はまるで3匹のこぶたの家を吹き飛ばそうとした後の、大きな悪い狼のようでした。

 

最後に、私のコーチであり振付師のエフゲニー・ネミロフスキーにインタビューが出来た事がとても嬉しかったです。私が彼と仕事を始めた時、私は彼の振付の功績に関しては何も手がかりが有りませんでした。私がダラスへ引っ越して数ヶ月後のある日、彼が私に誰が私のショートプログラム(2015-2017のダン・ラ・メゾン)を振り付けたのか聞いた時までは。

彼はとても驚いていました。私の以前のコーチ、セルヒィ・ヴァイパンがプログラムを作った、という事にです。彼はガリーナ・ズミエフスカヤと共に、ウクライナでセルヒィを指導していた事があったのです。ガリーナの他の生徒達と共に、です。その中にはヴィクトール・ペトレンコとオクサナ・バイウルがいました。エフゲニーのバレエのキャリアの話を聞く事は途方もない驚きがありました。そして、どのようにスケーター達との仕事を終えたのか、という話もです。一度私がそのストーリーを聞いたら、その話は世界へと共有されるべきだと分かりました。エフゲニーは驚くべき人で、彼との仕事が大好きでした。でも更に特別だったのは、彼がセルヒィと仕事をしていたからです。私達は輪となり繋がったのです。

 

F︰貴方の将来の計画はどうですか?テキサスに留まる予定ですか?それとも移転しますか?

 

H︰少なくともあと2年はテキサスに残ります。ここダラスにある南メソジスト大学で学部の学位をついに終える仕上げに入っています。私は昨シーズンにその大学でパートタイムで勉強を始めました。私が取った授業と、習った教授が本当に好きでした。

私はフルタイムの学生になる事にワクワクしています(少しの緊張も)。そして大学が提供する様々な研究機会を探索する事も楽しみです。私はドイツ語とジャーナリズムを専攻しています。私は副専攻で政治学も加えるかもしれません。何故なら私は挑戦すらしないよりも、副専攻を取る方が私の道には良いように見えるからです。もし全てが計画通りに進めば、2021年春に卒業する事を希望しています。

 

スケートの世界以外は、今年の春に、私はジェフ・グインと仕事をするという信じ難い機会を与えられました。ダラス・フォートワース・エリアの地元の作家で、彼の新しい本のリサーチをしています。私は新しい事を学ぶのが大好きです。ですからこの仕事は私の歩む小道にすぐに上がって来ました。

一度私が卒業したら、最後にどこに行くのか見当もつきません。私が希望するのは、卒業する時に私のドイツ語がいくぶん流暢になっている事です。そうしたら私は最終的にドイツかオーストリアのどこかか、米国かオーストラリアのどこかに行けると思います。冒険になるでしょう。 

 

学校に行く事に加えて、指導も少し始めています。本当に楽しんでいます。それから数人の友人の音楽を探す手伝いをしました。また、彼らの生徒達のものも。とても楽しいですよ。

 

今は大学の勉強に集中していますが、卒業後には米国のテクニカルスペシャリストになりたいです。私の両親に子供の頃から教え込まれてきた事は、自分たちを助けてくれたものや団体に恩返しをする事が重要だという事です。ですからテクニカルスペシャリストになったり、少しの指導をする事が、私がスポーツに恩返しをするために、やろうとしている計画です。

 

続く。