ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。①
引退を表明したオーストラリアのブルックリー・ハンさんのインタビューが載っていたので、訳してみました。長い間、オーストラリアという冬の競技が盛んではない国を引っ張ってきた先駆者のようなスケーターでした。
本当にお疲れ様でした。
かなり長いので、幾つかに分けて投稿します。
まずは①です。7/6の記事です。
【ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。①】
2019年7月1日、ブルックリー・ハンは彼女のソーシャルメディアから、引退を発表した。ハンは国際キャリアで全てオーストラリアを代表していた。2010年のジュニアレベルから始まり、7年連続で通して登場した2019年ISU四大陸選手権まで。練習中の怪我がフリーの前に棄権を余儀なくさせた。
彼女は3度、世界選手権(2013-2015)で試合をした。それから2014年ロシア、ソチでの冬季五輪、3度のグランプリシリーズ、20以上の国際試合。この2回のフィギュアスケーター・オンラインでのインタビューうちの1回目では、24歳のハンが選んだキャリアのハイライトを物語り、彼女のオンアイス、オフアイスの将来のゴールを明らかにする。
FSO(Figure Skaters Online)︰貴方のキャリアの中で幾つかのお気に入りのプログラムはありますか?その理由は?
ハン(H)︰私には多分4つか5つのお気に入りがあります。お気に入りを選ぶのは、私には恐ろしい事ですね。沢山のプログラムが特別で、沢山の違う理由があります。でも、トップ5を上げましょう。特に順番はありません。
レ・ミゼラブルの"夢破れて"のショートプログラムは、明らかに特別なものです。私はずっと音楽を見つける事に苦しんでいました。私は、理由はどうあれ、"夢"という言葉に執着していました。それで私は"夢"の歌を探し続けていたんです。ある日、スーザン・ボイルのバージョンの"夢破れて"が私の"夢"のプレイリスト経由で上がってきました。そして私の振付師エフゲニー・ネミロフスキーが私を呼んで、聞きました。
「これが君が滑る曲?」
そして私は彼を見て答えました。
「そう思います」と。
全ての作業は、その音楽を見つける事に繋がりました。それは最もあっけない結末に終わりました。私達が一度プログラムを作り始めてから、2時間ほどで全ての事を終えたと思います。物凄い早さで全てが固まって、正直に言うと、過去2シーズンを通して、オリジナルの振付をほんの少し変えました。私が即座に心地よいと感じたプログラムでしたね。毎回私が滑る度に、まるで旧友からハグをされているような、又は暖炉の前で紅茶を飲みながら良い本を読んで、お気に入りの着心地の良いセーターを着ているような感じでした。ただ"私"でいられたんです。
私が14歳の頃から、コネチカット州のニューイントンのリンクで、あるアイスダンスチームが"レ・ミゼ"を滑った時に、私はいつも、何かミュージカルからの曲で滑りたかったんです。終に願いが実現して、とても幸せでした。私はそのプログラムには、とても素晴らしい思い出が沢山あります。私が常に大切にするプログラムの1つになるでしょう。
昨シーズンのウェストサイド・ストーリーのフリープログラムは、また別の思い出深いプログラムの1つです。私が初めて本当に携わったものです。明らかに私が力を入れました。私のコーチから、音楽編集に関してはティモシー・ルドゥークから非常に沢山の助けを、エフゲニー・ネミロフスキーからは振付を得ました。でも私が音楽を選び取って(私が編集カットしたい所は、きっちり何秒に至るまで)、私が要素とレイアウトを選んで、全てが音楽と共にどの場所に置かれるのかを選びました。
そして私はコスチュームのデザインをしました(素晴らしく輝かしいアンドレア・ベッソンの力を借りて)。それは"私の"プログラムでした。ただ、人々が気に入ってくれるかどうか分からない時は、物凄くハラハラするものでもありました。ところが、私の恐れは必要ありませんでした。シーズン中ずっと、ポジティブなものが沢山返ってきていたからです。確証がありました。私はマリアという役が本当に大好きでした。彼女はとても強くて自信があります。でも柔らかくナイーブでもあります。彼女を描く事はとても楽しかったです。
試合で一度もミスなく滑ることが出来なくて、残念です。でも私は今シーズンの午前6時の練習中に氷上に私と1、2人が氷上にいる時の練習で、本当に良いクリーンなプログラムを滑ることが出来ました。(貴方達の拍手にとても感謝します。ローガン、レイレイ。)
ですから私は幸せに感じるべきだと思います。
"ポル・ウナ・カペーサ"、私の2016-2018のフリーは、私にとってまた別の特別なプログラムです。そのシーズンは違うフリーを使って始まったのですが、それはただ上手くいきませんでした。私はダラスへ引っ越したばかりで、シーズン初戦の後で、私達はプログラム変更を決めました。それはエフゲニー・ネミロフスキーと私が協同で創り上げた最初のプログラムでした。私はそれまでタンゴを滑った事はありませんでした。ですから、それまで滑った事のあるどんなものよりも違っていました。
そのプログラムで滑った最初の試合を覚えています。私はとても居心地が悪く、なんだか変な感じがしました。私は良く自分の事やキャラクターを引き出す能力を後から批判していました。それで私がやってきた事よりも、なおさらに簡単な事をやっていたんです。
私は2017年の四大陸選手権の練習時間に本当に突破口となる事がありました。私達はメインリンクで練習していたんです。そこは2018年五輪の試合会場となる場所でした。そこには大勢の人がいて、氷の近くに観客が座っていました。私のランスルーの間、私は本当に観客と遊びを始めました。2、3箇所、私のプログラムの中で止まらないといけなかったんです。私の脚を、手で撫で上げる部分で、常に物凄くやりにくさを感じていました。私はただ大勢の人達がいる所で演技を始めて、めちゃくちゃに軽いような、誘惑するような事と、キャラクターを演じ始めました。全て突然で、電球の光が消えてしまって、私はまるで「やだ、私出来るよ!」という風でした。私はスケーターとしても、表現者としても同じくらい、そのプログラムで成長しました。それは私のキャリアの中で、まさに正しい時の、正しいプログラムでした。そして、いつまでも私の心の特別な所に有り続けるでしょう。
少し時間を戻すと、私のお気に入りのプログラムはジュニアの2010-2012で使っていた"テイク・ファイブ"のショートプログラムです。私にとって、かなり違ったプログラムでした。とても滑っていて楽しい事が沢山ありました。2シーズン以上に渡って使ったので、私達は潤色し続けて、磨き続けました。それはまさに、私達がやってきた、その当時の傑作でした。恐らくコネチカットのコーチ、セルヒィ・ヴァイパンと私が一緒に行ったベストのプログラムでした。
最後は、私のフリー、"シークレット"(2007年映画のサウンドトラック)です。2013-2015まで使いました。2014年五輪も含めてです。当然、私のお気に入りの1つです。セルヒィと私がプログラムを振り付けるのに、1ヶ月ほどかかりました。彼は全てを確実に、完璧にしたかったのです。五輪で滑る可能性があると分かっていたプログラムというのは、私達どちらにとっても初めて取り組む事でした。ですから、少し気持ちが圧倒されました。その映画のサウンドトラックはとても感情的で綺麗でした。私はそのプログラムを滑る事が大好きでした。
たとえ私が最初のサルコウでミスをしていても、2013年ネーベルホルン杯での私の演技は、その試合は私がオーストリアの五輪枠を保証された場所なんですが、私にとってはずっと最高のものだと思います。
私は演技最後の大きなバック・スパイラルに入っていく所を覚えています。こう思っていました。「なんてこと!私出来たよ!」って。
私はその瞬間のために物凄く練習をしていました。私が望んだ、ほとんど全てでした。抜けてしまったサルコウに、あと2回転を加えたかったですけどね。
続く。