ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る。②

ブルックリー・ハンさんのインタビュー、続きです。元記事は2回に分かれていますが、長いのでまず前半の記事の続きを訳していきます。

思い出深い試合や、演技についてです。

F→フィギュアスケーターズ・オンライン(質問者)

H→ブルックリー・ハンさん

 

http://figureskatersonline.com/news/2019/07/06/brooklee-han-looks-back-on-her-figure-skating-career-part-1-of-2/

【ブルックリー・ハン︰フィギュアスケートのキャリアを振り返る②】

 

F︰貴方の競技スケートのキャリアで、いくつかお気に入りの思い出を話してもらえますか?

 

H→これは極めて難しい質問だと貴方が分かってくれるといいんですけれど。20年のスケーティング、そして9度の国際大会のシーズンは、お気に入りの思い出をいくつかよりも、もっと人に残すものです。でも、複数のハイライトはあります。もし私達が厳密に、現実的な私の試合でのスケートについて話すのならば、お気に入りの思い出はあります。

 

2010年英国、シェフィールドでのJGPのショートです。これは私の初めての国際試合で、明らかに私は少し緊張していました。プログラムの最後のジャンプは2Aで、それを降りて、そして「初めての国際試合でクリーンなショートを滑った!」と思った事を覚えています。私は自分がとても誇らしかったです。

 

2012年ミンスクでの世界ジュニア予選のフリープログラムは、また別のハイライトです。そのシーズンの最初の頃、私のJGP2戦目の後に、私の左の舟状骨に疲労骨折がある事を私達は発見しました。そして9ヶ月間、松葉杖を使う事になったのです。最後には世界ジュニアのために氷上に戻って準備と練習をしたのは、4週間だけしかありませんでした。

私は予選においてクリーンなフリープログラムでパーソナル・ベストスコアを出して5位になりました。それはまさに満たされた瞬間でした。不運な事に、セルヒィと私は予選通過のために全てのエネルギーを使ってしまいました。ですからショートには全く合わせる事が出来ず、あまり上手くは行きませんでした。

 

2012年ネーベルホルン杯ショートプログラムも確実に私のキャリアでは特別なプログラムです。大きなシニアの国際大会に出場した事が、私にとって初めてでした。2011-2012シーズンの終わりに、スロベニアトリグラフ杯に出場しました。でもそれは小さめのイベントだったので、ネーベルホルン杯が私の本当に初めての大きなシニアの試合でした。

イスタンブールJGPに出場する1週間前に、煩雑な外側の作り直しを少しやったんです。セルヒィと私はショートプログラムの要素を、数日で少し変えました。そして私達の戦略は成功して、ショートプログラムをクリーンに滑りました。私は試合の合間に色々変更出来た事が、嬉しかったです。とても高いパーソナルベスト・スコアで、ショート後に驚いた事に5位だと分かった時は、小さな嬉しいボーナスでしたね。

 

2013年四大陸選手権、2013年世界ジュニア、2013年世界選手権でのプログラムは、とても誇らしいものです。四大陸選手権へ向かうためのナショナル選手権では、私は全くもって酷い登場の仕方をしました。酷いと言うのは、ショートとフリー合わせて、本当に合計で3つのジャンプをやっただけでした。(一方で、ブレンダン・ケリーも同じナショナルで恐ろしいほど酷い演技をしました。それ以来、私達はお互い一番転んだ試合を見た事を冗談で言い合います。私が2回だけフリーでジャンプを降りた時、彼は1回だけしか降りませんでした。私が降りたジャンプのうちの1つは、抜けてしまったものです。ですから最終的に私達は同点だね、と言いました。)

四大陸選手権のショートへ行く時、私は明らかに狂いそうなほど緊張していました。私がその前の試合で全然上手く出来なかった事があったので。ショートの前の夜は、殆ど眠れなかったです。ところが私は2つ堅実なプログラムを滑って終わりを迎えました。その競技シーズンを通した分だけで、私の演技は成長しました。ナショナルの演技からカムバックしてくるのは、とても難しい事でしたが、忍耐の素晴らしいレッスンとなりました。

 

2013年ネーベルホルン杯のフリーは、はっきりと、私のキャリアの中で最も大好きな瞬間の1つです。その試合のために、物凄く練習をしました。私がその試合に出ていった時、私は自動操縦されている感じでした。明らかに最初のサルコウで集中を失っていましたが、コンボスピンを残して最後に向かっていく大きなバックスパイラルをやる時を覚えています。私はいつも抑えようとしていた全ての感情を出しました。洗い出しました。私がプログラムを終えた時、私はオーストラリアのための五輪枠を獲得するミッションを完遂出来たという自信が、かなりありました。私は、キスアンドクライに座ってスコアと順位がスクリーンに映し出されるのを見た時の瞬間を、忘れる事はないでしょう。五輪の枠を獲得したと知った時です。

 

2014年スケートアメリカでのフリーは物凄く誇らしく思っています。明確な理由があります。国際試合で初めて、完全にクリーンなフリーを実施する事が出来ました。そして私はそれが出来る選手だと世界へ見せる事が終に出来たので、素晴らしかったです。全てを行い、満足してプログラムを終えました。それは何かを超越したような感覚でした。

 

2015年USインターナショナル・クラシックでのショートもとても誇りに思います。私はその前のシーズンで、世界選手権のショートの時に内転筋を痛めて終えていたんです。ですから競技をする氷上へ戻る事は、確実に緊張感がありました。私の右のブーツの修正は、試合の1週間前にブーツの残りの部分が割れてしまった事で終わりました。だから私は履いてから4日しか経っていないブーツで試合に出たんです。私の曲がかかる前に、物凄く震えました。でもプログラムが始まったら、私は自分を落ち着かせて、クリーンなプログラムを滑る事が出来たんです。

 

また別の大きなハイライトと言うと、2017年四大陸選手権のフリーです。私は良い演技を引き出す事に苦しんでいました。特にフリーは、2年半ほどのシーズンの間です。それが終に、私は全て上手く出来たんですよ、最も重要な場所で。最後のジャンプを降りた時を覚えています。ダブルアクセルでした。私はただ、にわかには信じ難かったです。私がプログラムを終えて氷上の真ん中に立った時、感情に圧倒されました。チームメイトの皆が客席から狂ったように叫んでいるのが聞こえました。それは本当に特別な瞬間でした。私は自分がとても誇らしかった。何故なら、2年半の間に私が力を注いだ懸命な練習の全てが、終に実を結んだのですから。永遠に忘れない瞬間になりました。

 

2017年フィンランディア杯の試合の全てが、私がとても誇るものです。その試合は、4週間のうちの3度目のチャレンジャーシリーズでした。ですから私は相当疲弊していて、試合の1週間前に家にいた間、私のメインコーチ達はどちらも別の試合のために離れていました。

私が空港へ向かう3時間前に、私は公式なニュースを聞きました。それはオーストラリアのアイススケートの選手選考ポリシーに基づくものです。バリバリと音がした後に、カイラニ(・クレイン)がネーベルホルン杯で獲得した五輪枠が、そのまま彼女のものになった、という事でした。

私はこのニュースを予測していました。そのシーズンの私の演技は、優れたものから かけ離れていましたから。それでも私は心の中にかすかな希望を持っていました。だから少し残念な気持ちになりましたが、その気持ちによって自分を消耗させる事は出来ない、と分かっていました。フィンランドで、やる事がありましたから。

私は2つのパーソナルベストを記録して、フィンランディア杯を終えました。長い間で初めて、私が実施した2つのプログラムに満足して試合を去ることになったのです。

 

2018年オーストリアでのインゲ・ソーラー・メモリアル杯のショートもとても誇らしいものです。私が何度も"レ・ミゼ"が私のお気に入りの1つと言った通り、その演技が滑れて嬉しかったですし、エフゲニーと私は常に、私なら出来ると知っていました。ボード脇の彼と共に、上手く滑る事が出来てとても嬉しかったです。フリーは私の望むようにクリーンには行きませんでしたが、銅メダルを獲得して終わる事が出来て興奮しました。私にとって初めての、そして唯一のチャレンジャーシリーズのメダルです。メダルとパーソナル・ベストスコアが、この大会を特別で忘れられないものにしました。その大会を更に特別にしたものとは、沢山の素晴らしい友人達がその場にいて、その瞬間を共有出来た事です。ダニ・オブライエンとアナ・ヴァイパン-ロウも含めてです。

 

そして終わりになりますが、私は昨シーズンのナショナルで滑った2つのプログラムがとても誇らしいです。どちらも完璧ではありませんでしたが、2012年の衝撃的なフェスタ(ナショナル)から言えなかった事があるならば(私が2015年まで繰り返した功績)、ナショナルは私にとって少し呪いのイベントのようになりました。私のキャリアを通してずっと。そして今シーズンは、私が望んだように上手く滑る事が出来ないにも関わらず、私の全ての経験は信じられない位に前向きでした。ナショナルでは初めて、少なくとも何かしらの急落のようなものが無く試合をしました。試合の2週間前まで、私のメインコーチ達がオーストラリアに来られるかどうか、私達は定かではありませんでした。飛行機のチケットが、とにかく酷く高額でした。エフゲニーは私と一緒に来たいと申し出てくれましたが、シドニー・アイスリンクのグランドツアーへ行くために4日間をオーストラリアで過ごすという、その旅行を彼にさせる事に申し訳なさを感じていました。特に彼が長いフライトに乗る事の大ファンで無くなった時からです。

ですから、私は友人と五輪チームメイトのダニ・オブライエンとグレッグ・メリーマンのために手配をして、来てもらいました。1週間ずっと、私と共にリンク脇にこの2人がいた事は、素晴らしかったです。そして彼らと私の最後のナショナルの経験を共有出来た事は、とても嬉しかったです。

 

 

続く。