ミシェル・クワン︰トリプルトゥから外交まで。

ミシェル・クワンさんの記事がありましたので、訳してみました。

4/23の記事です。

 

https://usfigureskatingfanzone.com/news/2019/4/23/figure-skating-michelle-kwan-from-triple-toes-to-foreign-diplomacy.aspx?path=figureskate

 

ミシェル・クワン︰トリプルトゥから外交まで】

4月の頭の頃、米国の歴史の中で最も華やかなフィギュアスケーターミシェル・クワンは、ティモシー・ドゥワイト・カレッジでのチュブ奨学金の後援でイェール大学を訪ねた。

最高の栄誉を授与された訪問演説者の1人として、クワンは選ばれた。彼女の広く知られた競技の成功と、彼女が証明した公共の場での賢明さによって。以前のチュブ奨学生は、ハリー・トゥルーマン大統領、作家のトニー・モリソン、そしてジャーナリストのニコラス・クリストフがいる。

 

彼女のイェール大学の地元の学生たちを前にしたレクチャーの間、(学生とは)米国のフィギュアスケーターのネイサン・チェンも含めて、彼女はフィギュアスケートがどのように彼女を公益奉仕の世界へと導いたのか、議論をした。

「昨日のように感じます。私は7歳の時に、家族に向けて壮大な声明を発表しました。お母さん、お父さん、私が残りの人生でやりたい事が分かった。私はオリンピックフィギュアスケーターになりたい。」

 

その時、彼女はただそのスポーツが好きだと言う事だけを分かっていた。キラキラのコスチュームが着られる事と、美しい音楽と一緒に早く滑る事が大好きだった。彼女が分かっていなかった事は、そのスポーツで、どれほど彼女が素晴らしいかという事だ。卓越さが彼女を導いていった。

 

「私が13歳の時、94年の全米選手権で銀メダリストになりました。スポットライトの下に押し出されて行って…13歳から、私の人生は変わりました。」

 

クワンのメインで集中する点がより良い、強いアスリートになる事だった間に、彼女は同時に多くの挑戦に直面した。それはもっと複合的な、グローバルな問題を持つことへの準備をする事だった。

「それは私の重大な瞬間でした。オリンピックへ行ける事になった事です。そして、全米の前に私はギプスをしていました。」

彼女は説明した。彼女は人生における重要な瞬間を思い出していた。

「私は辞める事が出来た…それとも良い態度で話をする事も出来ました。そして言うんです。"一体どうなってんの?私頑張らなきゃ"」

その時の全米選手権では、クワンは複数の6.0を出し、オリンピックへの出場が決まった。

 

「その時が、このスポーツから学ぶレッスンを受けた時でした。私はタオルに顔を埋めたり、笑顔でもたれかかって、"これが私の道です。私は良い身構えをして、最高の演技をします"という風でいたりも出来ます。時々は、それで十分なのです。」

それらのレッスンが、彼女が広報外交活動へと移行した時に、必須の事へと変わった、とクワンは説明した。

「それはスポーツからの重要な移行でした。」とクワンは正直に説明した。

 

外交政策についてのジョージ・W・ブッシュとのランチでの雑談の後に、コンドリーザ・ライス国務長官より公益大使となる招待を受けた。

彼女の教育と文化的発展の情熱に気づいた後、彼女は国務省の相談役の所へ素早く動いて行って、最終的には、ヒラリー・クリントン国務長官が大統領選のキャンペーンの間に公共奉仕活動の進行役の代理人に就いた。

 

その活動の多くのメンバーがストレスの多い状況にパニックになっていた間というのは、スケートで難しい状況を解決するために準備をしたり、人々を見つけたり解決策を見つける事のようなものだったと、クワンは説明した。

「たくさんの火事があるんです。」とその活動の軌跡について言及している時に、クワンは語った。

「アスリートとして、人は常に厳しい状況にいます。でもとにかく、貴方は深呼吸をして、少しだけ戻って、状況を分析して、それに従って解決します。いつも何処かに火事があるものです。」

 

公益大使としての間に、クワンはどのようにフィギュアスケートそのものが外交への橋渡しとなったか、の議論をした。

「人種やジェンダー、性別、宗教の違いにも関わらず、何も関係ありません。スポーツの話をする時、そういった違いは余所に置いておきます。凄い事です。」

 

公益大使として、文化事業事務官の元、クワンは世界を旅することができた。そして学生たちと、教育や社会問題について話した。相談役としては、交換留学制度の範囲を拡げるための、より舞台裏の場へ入っていった。当然、スポーツ外交を含むものだ。

 

ミクロとマクロ、どちらのレベルでも、クワンはフィギュアスケートから得た技術を使った。世界中につながるために。

 

クワンは、初めてのオリンピックの事と、愛国心の感覚が身体に染み込んでいたのを思い出している。

「責任が更に、極めて大きいのです。特にチームUSAに入っている時というのは…でも出て行かないといけない、責任を果たさなければ。そして全ての人々が誇りに感じるように努めるのです。」

 

フィギュアスケートから外交、そして政治。それこそまさに、ミシェル・クワンがずっとやってきた事、挑戦し、成功し続けている事であり、全ての人々が誇りに思う事である。

 

 

終。