マキシム・トランコフさんが指導、現代のフィギュアスケート等について語っています。①

今回はコーチの言葉を訳してみたいと思います。コーチ達は選手と違った視点で語ってくれたりもしますが、トランコフさんは数年前まで現役でしたので、ベテランコーチとは少し違って、若いからこそ力強い言葉で話しています。若いコーチのインタビューも、なかなか興味深いです。

長いので、2回に分けたいと思います。

元の英訳された記事は

こちら

です。

ロシア語→英語→日本語です。

 

I→質問者

M→マキシム・トランコフさん

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【マキシム・トランコフ︰チャンピオンのポジションはとても不安定なもの。今日、人々は私達を愛し、明日には非難する。】

 

I︰マキシム、貴方は37歳には見えませんね。

 

M︰ええ。私はその数字は一切追ったりしていません。さらに、面白い話があります。私がイリヤアベルブフのチームに仕事に来た時、自分よりも若い世代と同僚になりました。ロマン・コストマノフが、例えばですが、一緒でした。私は彼に、私達には年齢に少し差があるねと言いました。私はその時33か34歳だったんです。それから、一緒に誕生日パーティーにいた時にまた、同じ会話が始まりました。私達のチームで働くある男性がいて、彼は私のクラスメイトだったんです。彼が言うには、「どうしてそんな事が?僕よりも半年若いでしょう」と。私達は数え始めて、そして私は自分が思ったより1歳若かったと分かりました。信じるか信じないかはさておき、私は数年間、自分の年齢を少なくとも1歳は年上にしていたんです。

今、私は少しばかり愕然としたりします。テレビで見ていた人に会った時に、私は"ミスター"と呼びかけていました。それから、彼が35歳だと分かった事です、例えばの話ですが。私は自分が上の位置にいるとは全く感じていません。若い人達と同格の言葉づかいで接します。そして私の友人の殆どは、私よりも若いんです。そうして私は上手いこと守られています。私の同輩というと、オクサナ・ドミニナ、マキシム・シャバリンです。けれど彼らが引退した時、私はスポーツを続けていました。そして、いわばマキシム・コフトゥンの世代に追いついていました。ですからその37歳というのは37歳です、私の書式において。そしてそれは33歳に近い年齢です。時々私がアルコールを買う時には、人々はIDを見せてと聞いてきます。

 

I︰(質問者はショックを受けた目をして聞いた。)貴方とアルコールですか?どういう意味です?あり得ません!

 

M︰実は私は自分のバーを持っていました。親しい友人のフェドール・クリモフと私、ところで彼は私より年下ですよ。私達には夢がありました。私達自身のバーを持ちたいというものです。スポーツ放送と、フィギュアスケートの生中継、友人達で集まれる場所。私達がスポーツを終えた時、少しばかりお金があり、それで始めました。私達のバーはコルパク・パブと呼ばれていました。フェドールがサンクトペテルブルクのコルピノ出身で、この地域はコルパクと呼ばれていたからです。私達のバーはモスクワのほぼ中心地にあり、フィギュアスケートのファン達が余暇を過ごすために来ていたんです。全てが素晴らしかった。そして、このパンデミックが起こりました。それで終わりです。今、バーは無くなりました。コロナウィルスと生き残る事は出来なかった。私達は2ヶ月、生き残るために頑張りました。でも損失ばかりで。けれどプライドは残りました。私達はYandexのレートによると、5点中の4.8点で閉店したんです。

 

(中略)

 

I︰そして今はコーチで、そのためだけに生きていますか?

 

M︰今私はエフゲニア・タラソワ、ウラジーミル・モロゾフ組を指導しています。多くの時間が無駄になりました。私の事業も含めて。そして今、アイスショーは無いと分かったのです。私は"アイス・エイジ"を諦めました。彼ら(タラソワ、モロゾフ)が以前のレベルに戻ろうとしているためです。

 

I︰貴方との2年前の会話を良く覚えています。貴方は言っていました。「私は1年間仕事をします。それで上手くいかなかったら、私はそこから去り、干渉もしないでしょう。」と。

 

M︰正直に、私は1年働きました。でも彼らは助けを必要としていた。それを彼ら自身で頼んできました。ある瞬間、私は彼らを手伝おうとしていました。ペアのコーチとしてではなく。その年の彼らとの取り組みも数えたなら、私が思うに、トータルで2ヶ月にも満たないでしょう。今年は彼らとの仕事に集中する事を依頼されました。私は全てに重きを置き、自分の確かなゴールを設定したんです。私は2度、アスリートとして五輪へ行きました。平昌ではチャンネル1の従業員として。私はコーチとして五輪で仕事がしたいです。ボード脇に立ちたいです。これは今、私にとって非常に重要な事です。私は、自分のペアを五輪へ連れて行くコーチになりたいのです。

多くは"アイス・エイジ"にかかっていましたが、私はこの事業を辞める事にしました。何故ならペアを抱えていますから。

 

I︰エフゲニアとウラジミールは沢山の事を経験してきました。彼らはとても情緒豊かというわけではありません。他の人達と同じようにオープンではないです。彼らは非常に自分達の内にこもっていて、とても真面目です。

 

M︰彼らの閉鎖的な所はとても深刻な問題です。特にジェーニャにとっては真実で、この事を私は彼らに伝えようとしています。でも彼らは大人ですから、私にとって最も難しい事です。ヴォロージャは大人の男性ですから、彼を変える事は出来ません。彼は私の助言を受け取る事も、そうでない事も出来るのです。それから技術的に、彼を再度鍛える事は出来ないのです。さもなければ壊れてしまうだけです。ある程度の事に介入する権利は私には無いのです。私はとても良いペアを抱えていながら、とても難しい心理的な期間にいます。

彼らは7年目のペアの期間を終えた所です。五輪で成功する事はありませんでした。ショートプログラムではリーダーの中にいて、トップ3から飛ばされてしまいました。心理的に多くの傷を負います。そして不可解な1年になるように見えますが、全ては解決が可能でしょう。私達は競技会に向けて良く準備できていました。ロシア・カップの第一戦で、進歩した事の全てを見せたかったんです。しかしその後に、コロナウィルスの事が起こりました。私達は既に3つのスタートを逃してしまいました。そしてこの月曜から、またゼロから始めたのです。

私はアレクサンドル・コーガンと話しました。彼に言いました。ここにあるアスリートがいて、彼らは人生の全てを乗り越える事を経験してきた。彼らこそ、全くの始まりから全てが与えられてきた人達だ。これは真実だ。コーチも同じストーリーがある。それは、またも私に関する事のようだ。それでも私は全てが良い終わりを迎えると願っている。スポーツで起きた事のように。

 

I︰貴方がターニャ・ヴォロソジャールと貴方について、どのように話していたか覚えていますか?

「かつて私達は、"取るものを取って、去る"というカテゴリーのアスリートでした」と。

 

M︰私はこの質問が何についてなのかを理解しました。はい。ジェーニャとヴォロージャにも似たようなストーリーがあります。彼らのキャリアのある時点で、彼らは予備のように感じていました。しかし彼らは選ばれたペアなのです。美しく、特別です。ヴォロージャは氷上において大柄で、ハンサムな赤毛の男性です。彼らは輝いています。でもスポーツにはあるストーリーがあります。もしも貴方の道が、初めから棘の中を行くものであるならば、常にそのようであるのです。人はそれに気づき、受け入れる必要があります。彼らは内なる競技会の瞬間を通り抜けました。長くは続きませんでしたが。

 

I︰ペアスケーティングが影に隠れている事は、貴方を悩ませますか?

 

M︰私がスケーティングを終えた時、憤慨し、ペアスケーティングサバイバルゲームになっていく、と叫びました。「人は我々の分野を溺れさせている。ペアスケーティングはもうすぐ無くなるだろう。」と。でもその後に気づきました。

もし私が何も変えられないなら、この状況に影響を及ぼせないなら、何の意味がある?私は会社の中を歩き回ったり、会議で椅子を温めたりする事は出来ないのです。

残念な事です。自分のために言いますが、ペアスケーティングとは常に私にとってフィギュアスケートの本質でした。ペアスケーティングでだけ、複雑さと美しさが見られます。男性と女性の息のあった作用、幾何学的な共時性です。女子シングルのファンから、汚れたボロ布が私に投げつけられているのは分かっています。

分かりやすく言いましょう。"見られるもの"ではなく、"見えていたもの"であると。今はただのスポーツです。サイドバイサイドをやった、上手く出来た。そして誰もラインがあるかどうかを見ないのです。ベルソワ、プロトポポフ組の写真を見て下さい。トットミアニーナ、マリニン組、それから多分少しだけのヴォロソジャール、トランコフ組。こういったラインで、正しいアングルというものはどこなのか、洗練されているのか、センチメーターを正解にやっているのか、を見て下さい。現在は誰も必要としていません。そして審判とは誰でしょうか?シングルのスケーター達です。ペアスケーターは殆どおらず、例えいたとしても、彼らが滑っていた頃を私は知りません。私は彼らが悪い審判だと言っているわけではないんです。ただ、彼ら自身はペアスケーティングに挑戦していないのです。

 

I︰その、貴方は審判にはならない、そうでしょう?

 

M︰いいえ!絶対ありません。私は人をどう採点するのか分かりません。私はいつも採点されてきました。だからこそ、やりたくないんです。私はアスリートにとって、審判とはこういうもの、という人になりたくないです。

 

I︰貴方はかつてこう言っていました。貴方は自分自身よりも欲していた人々のために、いつも滑っていたのだと。

 

M︰それは本当です。ソチ五輪の1年前、私の父は亡くなりました。欧州選手権の直前です。彼は私の最大のファンだったんです。五輪で優勝した後、彼のリアクション、彼の目、彼の言葉、彼の喜びが、どれほど恋しかったか、今でも覚えています。私はいつも父に五輪で優勝した所を見て欲しいと思ってました。そう、多分、彼は上から見ていた事でしょう。自分勝手に聞こえるかもしれませんが、その時の私にはそれが本当に必要でした。

五輪のフリープログラムにおいて、私達は凄まじい戦いをしたとは言えません。ショートプログラムの後に、全てがもう既に明らかでした。そしてあのフリープログラム、私の最低のスケートであり、私はロボットのように滑りました。ただプログラムを実行するだけの機械人形のようにスケートをしたんです。

 

I︰どれだけの貴方のファンがガッカリして息を吐いた事でしょうか。

 

M︰私の最高のフリースケートは、五輪の前に日本のグランプリファイナルで滑ったものです。そしてあのプログラムを誇りに思っています。私は自分の事を分かっています。私が恍惚状態に入った時、それを得た時、その化学反応で、私達は心の中に入り込んだのです。私はプログラムを生きていました。技術を追ってはいませんでした。これはフリープログラムで時々起こりました。でもいつも起こる事ではありません。しかし、それは本当にゾクゾクしました。

 

I︰そして、ソチ五輪での歴史的な世界最高得点は未だ破られていません。

 

M︰ええ。そして私はこのスコアに近いものを審判が与える時に、この事を質問するのがとても興味深いです。その演技構成点は本当にあの演技構成点に近いのだろうか?将来、私は見たいのです。私達のような、平昌五輪でのアリオナ・サフチェンコ、ブルーノ・マッソ組のオリンピック・フリープログラムのような、現世界チャンピオンである中国ペアの前回のフリーのようなプログラムを。若しくはタラソワ、モロゾフ組のラフマニノフのプログラムのような。私にとって、これがペアスケーティングに関連したものなのです。

 

I︰貴方は国際スケート連盟アスリート委員会のメンバーであるクリモフに同意しますか?

 

M︰私達はこの事を議論していました。しかし私達はペアスケーティングにおいて異なる視点を持っています。彼は少し違うスケートをしていました。私にとってペアスケーティングとはパワーの要素、要素の独創性、優れた高いリフト、難しいツイストです。ストルボワとクリモフのスケートは"ジャンプとスロー"によるもので、彼らは3回転-3回転のコンビネーションをやっていました。私達は3回転-2回転でした。私達が何を議論出来るでしょうか?

 

I︰これらの不同意はお二人の友情を妨げますか?

 

M︰彼は私の子供の名付け親です。友情は友情で、スポーツでは全てが氷上で決められます。はい、私達は挨拶すらしなかったライバル達がいました。でもこれは私にとって問題ではありませんでした。私達はヴァネッサ・ジェイムズ、モーガン・シプレと友人でした。それからもうコーチもしていました。もし私達が彼らに負けたら、いつもまず初めに彼らを祝福しに行きました。友情にとって問題ではありません。

 

I︰私達はヴァネッサ・ジェイムズとモーガン・シプレに関して話していますが、シプレが巻き込まれた性的スキャンダルについて、どう感じていますか?

 

M︰人は住んで、働いている国のルールに則って動かなければいけません。そしてルールを破る事、貴方に何が待ち受けているのかを理解しなければならないのです。私は全てのストーリーを良く知っています。もしかすると、私は貴方に秘密を言うかもしれません。彼らは今シーズンの前に私とトレーニングをしたがっていたので。ですから私は何が起こっていたのかを、とても良く知っています。報道陣が書いていたものと全く同じではありません。

セーフスポーツは必要なものです。しかし時にそれはやり過ぎになる、彼らが言う所をによれば。全てがそれほど単純ではありません。ええ、それは抑制するためには必要です。罰するために必要です。でも全ては不確かなのです。私はモーガンのために言い訳をしているのではありません。それでもこの話には多くの重要な微妙な違い、そして軽減する事情があります。我が国では、ああいった事は完全に受け入れられないものです。私達にとっては、あのような事は完全に受け入れられません。

 

(続きます)

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トランコフさんの最近のインタビューでした。タラソワ、モロゾフ組は平昌五輪でメダルの可能性がありましたが、上手くいかず、その後ジュニア勢の台頭だったりでなかなか良いシーズンが送れずにいました。まだ現役を続けるので楽しみにしていましたが、そこにモロゾフ選手のコロナウィルス陽性のニュース。かなり衝撃的でした。しかもその後最近になって別のペア、現在ロシアのエースのペアとなったボイコワ、コズロフスキー組のコズロフスキー選手も陽性と。特に症状は無いと記事で読みましたので、早くまた試合に出られると良いなと願うばかりです。今は誰が陽性か、本当にどこでも感染リスクがあるな、と…更に気をつけようと私自身も思います。

ジェイムズ、シプレ組は引退を表明しました。彼らの演技は好きでしたので、とても悲しいですが、今後の仕事の道が絶たれるべきではないと思います。起こった事の内容は、トランコフさんが語るように私も受け入れられませんが、引退後のキャリアを絶たれるのは別の問題で、違う形で仕事が出来るようになればと思います。罰は受けなければいけないですし、社会的にも相当な罰を受けたと思いますので…。ただしばらくの間、指導者はちょっと厳しいのかもしれません。何かの形でスケートに関わるか、分かりませんが、それでも、何か道を残してあげて欲しいです。間違った事をした本人は状況を受け入れられても、パートナーのヴァネッサさんを思うと、胸が痛みます。彼女にスケートの経験を活かせる今後の素晴らしいキャリアがあると願っています。

 

紀平梨花選手がジュニア時代から今後について語っています。

先日の国際スケート連盟さんのインタビュー等のページに紀平梨花選手の記事が出ていましたので、主に紀平選手の言葉を訳してみました。

元の記事はこちら

です。

 

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紀平梨花︰ジュニアから大舞台への旅路】

フィギュアスケート界では、紀平が国際ジュニアのシーンで競技を始める前から彼女の事は知られていた。彼女は非常に若い年齢の時から将来を有望視され、素晴らしいジャンプの能力を見せており、トリプルアクセルを跳ぶビデオがあったのだ。そのために2016年チェコにおいて、彼女がジュニア・グランプリに上がった時には好奇心と期待が向けられていた。この日本人スケーターにとって脚光を浴びる最初の一歩となり、彼女は銀メダルを獲得した。

「私にとって正に最初のジュニア・グランプリは、ジュニアの始めの時期でチェコの競技会でした。ショートプログラムの演技では幸せに思いました。私の調子は良くなかったのですが、クリーンな演技をやる事が出来ました。フリースケーティングでは、少し残念でした。トリプルアクセルで着氷に失敗してしまったんです。」

紀平は2度目のジュニア・グランプリ大会、スロベニア首都での競技会リュブリャナ杯で優勝した。これによりファイナルへ進出したのだ。

スロベニアでは、ファイナル進出する事になったのでとても幸せでした。ジュニア・グランプリが始まる前からそこに出場するんだと強い確固たる意思があったからです。」

「また、ショートとフリーのクリーンな演技が私に凄く自信を持たせてくれました。」

 

(JGPF2016について)

「その試合では、私が練習リンクに入った時に私の体型は調整できていなかったんです。私は緊張して、不運にも表彰台に乗るチャンスを失ってしまいました。当時その事はすごくガッカリしました。」

 

(ジュニア2年目の2018年世界ジュニア選手権について)

「私の調子は完璧ではありませんでした。そのためにスケートをしている間に身体的にも精神的にもコントロールに失敗しました。私は、たとえ何があっても全てのジャンプを降りなければならない、と考えていて緊迫し過ぎていたんです。それは自分がエラーをしてしまうという結果に繋がりました。」

 

(シニア転向後について)

「ジュニアでやっていた頃は、精神的にも身体的にも、自分に対してどのように上手く対応するのかを学ぶ事がとても大変でした。どのやり方が自分にとって一番良いのかを見つける事が出来ずにいました。そのために私はミスを重ねていたんです。でもその経験に感謝しています。私は自分自身についても学ぶ事ができました。今、私はシニアのスケーターです。私は自分の体型が完璧ではない時でも、どうやって最高のものを見せるのかを確実に知っているんです。」

 

(ジュニア・グランプリについて)

「ジュニア・グランプリの試合結果を追っています。毎試合に沢山の学びがあります。それからいつも結果をチェックするようにしています。その事が、私にもっと上手くなるようにと、鼓舞するからです。」

 

(ジュニアへのメッセージ)

「私がジュニアスケーターだった頃は、失敗が多く苦労しました。その事は、何度も何度も自分の自信に対して疑問を投げかける事になりました。でも私は気づきました。それぞれの失敗にはより大きな意義があるのだと。その背後にある理由を理解する事が、貴方を更に強くするでしょう。私が皆さんにいつも忘れずにいて欲しい事は、失敗をして自信を失う必要は無いという事です。その事に対して前向きでいて下さい。貴方自身を信じて下さい。貴方自身をもっと知る機会があるでしょう。そして今の貴方よりも、もっと強くなって下さい。」

 

(今後について)

「今、私はシニア3年目に入りました。やっと大きな競技会の雰囲気に慣れてきた所です。私は世界選手権のメダルを取った事がないので、次の私の目標はそれを達成する事です。」

 

終。

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紀平梨花選手は今スイスにいますから、このウィルスの現状では日本人選手でもインタビューが貴重で、とても有り難いですね。昨年はトリプルアクセルがかなり試合でも問題なくハマるようになってきた所へ、4回転を跳ぶロシアの少女達がシニアを席巻しました。紀平選手も4回転サルコウを跳べますが、試合でとなるとなかなか難しいですね。今シーズンはどうなるでしょう。記事の中に18歳と書いてあり、「えぇっ!」と言ってしまいました(汗)

早いなぁ…でも4回転を武器にやって来た少女達に焦ることなく(少なくとも表には見せていなかった)、着実にキャリアを進めているように見えます。今シーズンの紀平選手のプログラム、楽しみです。早く見られる日が来るといいですね!

 

グランプリのフランス杯にアサインが出ていましたが、ちょっとフランス国内の感染状況がニュースで読む限り、酷いですよね…。どうなってしまうんでしょう。でも私達はスケーターの皆さんの健康を願って、待つのみですね…。

ヴィンセント・ジョウ選手がこれまでのスケート人生と未来について語っています。

国際スケート連盟さんのホームページに、ヴィンセント・ジョウ選手のインタビューが載っていたので、主にヴィンセント選手の言葉を訳してみました。

 

英語の元記事は

こちら

です。

 

グランプリシリーズのアサインも発表されましたが、本当に今後どう大会が開催されるのか、よく分からないですね。とにかく開催されるなら、問題なく終わってくれる事を願うのみです。

 

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【ヴィンセント・ジョウ:ジュニアから大舞台への旅路】

 

今私達に五輪や世界の舞台で感銘を与えるスター達は、全員がジュニアのレベルからスタートし、彼らの旅路はジュニア・グランプリシリーズから進み始めた。その内の一人がヴィンセント・ジョウであり、彼は2017年世界ジュニア選手権でタイトルを獲得した。その次のシーズン、彼は五輪チームに入り、平昌五輪で立派な6位という順位になった。2019年、世界選手権と四大陸選手権で銅メダルを獲得した。

 

(ジュニア・グランプリのデビューについて)

「僕は、ついに大きな国際競技会に来た事に興奮していたのを覚えています。そして他の国の全ての男子選手達を見て、僕が世界の表彰台に乗るレベルに到達するという夢を叶えようとしている間に、この同じ人達と長いこと競っていくのかもしれない、なんて考えたりしました。僕がショートプログラムで68点を取り、初めて4回転サルコウをフリーで降りて銀メダルを取った時、ジュニア・グランプリデビューの成功の事で、自分が誇らしかったです。」

「僕は若い頃からずっと、誰かになりたかった。成功したかった。ジュニア・グランプリに出場している全てのスケーターを称賛していました。僕はその全部を見ていて、殆ど規則的に結果を追っていました。ついにジュニア・グランプリに振り分けられた時は、まるで大きなものを受け継いだような感じでした。そして競技をする事の最初の1歩であり、世界選手権や五輪といった大舞台へと僕の道をつなげていくものとなりました。」

 

(2015年ジュニア・グランプリ・ファイナルについて)

「僕は学校で机の下からライブストリームで7番目のジュニア・グランプリを見ていました。最後のグランプリ・シリーズの結果次第で僕がファイナルに行けるのかどうか決まるからです。僕は明確なスケーターの順位と、自分がファイナル進出するための得点を計算していました。スケーター達が演技を終えた時、自分がファイナル進出だと分かりました。授業はまだ終わっていなかったので、僕は静かにその事を祝福しないといけませんでした。僕の胸は幸せではち切れそうでしたが、そこに座っている事しか出来なくて、興奮を隠していたんです。僕は国際大会に出場した最初の年にファイナルに進んだ事を、物凄く誇らしく思います。加えて、ファイナル進出という事は、僕の憧れの人達がシニアレベルで競技する所を生で見る事になる、という事でした。僕はユヅ、昌磨、ボーヤン、ハビ、そしてパトリックを生で見たんです。まさに忘れられない経験です。ユヅは世界最高得点を獲得して、全員がすごい演技をしました。そして観客はクレイジーでしたね。まさに世界レベルの競技会での最高の生観戦の初体験でした。」

 

(世界ジュニア選手権について)

「僕の最初の世界ジュニア選手権は素晴らしい学びの経験となりました。僕は自分の能力のベストではなかったにも関わらず、トップ5に入りました。僕はここが自分の舞台かのように感じ、来年に優勝するには僕に何が必要か、と自分に問いかけるという非常に良い感覚を得ていました。」

 

その通り、この類まれなスケーターは次の年に台北でタイトルを獲得したが、それは容易な努めではなかった。

「2016-2017は僕にとっては大変でした。それから全てのシーズンがジェットコースターのような物語です。でもここから全てが始まりました。最初のグランプリ(横浜、日本)の後、新しいフリーを作らなければいけませんでした。当時のものは上手くいかなかったからです。次のグランプリ(タリン、エストニア)までたった1週間しか僕にはなく、一時的な衣装を作る時間さえもありませんでした。それでもどちらのグランプリもメダルを獲得して終えたんです。けれど僕は腰を怪我してしまっていて、どちらのグランプリでも最高の技術内容で演技が出来ませんでした。それが影響してファイナルに進出できず、また世界ジュニアのタイトルを取る対象から外されていました。殆どの人々は他のスケーターが勝つと見ていたのです。しかしファイナルで他の人達がスポットライトを浴びていたその時、僕は下を向いて回復に集中し、可能な限りの最高難度の内容を組み立てる事に、これでもかというほどに取り組んでいました。その後、僕は突如として台北に登場し、フリーでの4回転ルッツと2回の4回転サルコウに人々は驚いていました。そして巨大な数字の(ジュニア)世界最高得点を獲得したんです。それは僕のキャリアにおける、勝ち目のない物語からの初めての飛躍でありました。」

 

(五輪チームに入るまで)

ジョウはジュニアの舞台で自分の才能と能力を証明していたが、それは強い米国内において翌年の五輪や世界選手権へ行けるという事ではなかった。

「五輪は2017年世界ジュニア選手権に続く次の年であり、僕にはチームに入るためのチャンスは少ししかないと知っていました。ジュニアで成功しなければいけませんでした。」

「五輪の人材の可能性として人々が見て、僕を考慮してくれるようにするために、3種類の4回転を実施しなければいけなかったんです。フリーに4回転ルッツを含めたものです。ですから僕の世界ジュニア選手権での成功は、先程も言ったとおり、勝ち目の無い五輪ストーリーからの初めての飛躍でした。実際、前年の2016-2017シーズンは、2018年の五輪は不可能かなと思いました。しかしながら、僕のジュニアでの飢餓的な駆り立てていく成功と共に、自分自身が五輪チームレベルの可能性にどんどん近づいていると気づいていました。」

 

「僕はこう推論していました。もし僕がジュニアで258点を取って、4回転ルッツを跳んだなら、更にもし4回転フリップや4回転トゥループ(既に2016-2017に出来ていました)がプログラムに入れるために十分な出来であれば、五輪チームの資格を得られるだろうと。しかし、それは賭けでした。そして信じ難いほどの鍛錬と大変な練習を積むことになります。つまりそれが正に僕がやった事なんです。

それで、2017-2018シーズンに五輪チームの枠に届こうとして、何度も失敗しました。全米選手権の2ヶ月前のグランプリ・フランス杯で、僕は人生で最悪のプログラムを2つやりました。それはまるで僕の最高の夢、それは常に不可能に思われていたけれど、突然かろうじて到達できそうになったその夢が、僕が掌で掴むより早く壊れてしまったような感じでした。僕は落ち込んで家に帰り、もう一度夢を見ようとしました。自分の指導の状況とトレーニング・メソッドを再評価して、もう一度ゼロから積み上げて行く事を始めました。

全米選手権が近づいた時には、3つの五輪枠を争う5人の男子選手(ネイサン・チェン、アダム・リッポン、僕、ジェイソン・ブラウン、マックス・アーロン)がいたんです。その後、ロス・マイナーが2位になり、皆を驚かせました。しかしながら、皆はそれでも僕よりも強い、本質的な議論をしていました。僕はフリースケーティングを一番最初に滑って、僕の後の男子選手を見て、僕はチームに入るために十分な事をしたんだと静かに祈っていたのを覚えています。殆ど息も出来なかったんです。僕よりも経験があり、チームに入る資格がある何人かの選手は、痛手のあるミスをしました。そして、僕にはチャンスがあると気づきました。とても小さなチャンスでしたが、それでもまだ可能性はあるのだと。

大会から1時間後、僕は殆ど一言も話せず、来るかどうかも分からないメールを待ちました。メールは僕がチームに選ばれた事を告げていました。午前12時31分、ついにやって来たんです。もしかすると僕の人生の中でも最高の瞬間でした。数え切れないほどの夜を眠れずに天井を見つめて横になり、奇跡を願って祈り、営業終了した後のジムで過ごした時間、もっとやらないと、強くならないといけないと知っていて、汗を振り払い、反復運動を更に繰り返すための疲労、そしてこの繰り返し行う反復練習がチームに入れる僕とそうでない他者の間に違いを生むのだと言い聞かせて、最終的に努力は実りました。

僕が小さな男の子だった頃にバンクーバー五輪エヴァン・ライサチェックが金メダル取った所を見ていたのが、まるで昨日の事のように思えます。畏れ多い事ですが、いつか僕もそのレベルに近づいていけたらと思っていました。ついに僕は夢を叶えたんです。」

 

(五輪後のシーズンについて)

ジョウは韓国で特に力強いフリーを行い、五輪デビューでショート12位から6位まで順位を上げた。しかしながら、2018年世界選手権ではフリーで失速し、ショート3位から14位へと落ち込んでしまった。スケーターは次の年のために再構成しなければいけなかった。彼はもっと遥かに進化したいと思っていた。

「続く次のシーズンは更に厳しいものでした。」

「五輪で5度の4回転を決めた後、僕はもう一人のただの4回転ジャンパーだと印象づけられてしまいました。不運にも、五輪チームに入るために僕がやらないといけなかった事とは正にそれだったのです。僕のシニア1年目には、僕の演技構成点がすぐに急上昇しないだろうと分かっていました。ですからより難度の高いジャンプを跳び、得点を伸ばさないといけなかったんです。僕のゴールは常に完全なるスケーターになる事、ジャンパーであると共に素晴らしい表現者になる事でした。でも夢を成し遂げるために僕はもう一つの事に集中しないといけなかったんです。でも今、全体像を掴むべき時が来ました。スケート技術を磨きながら、僕を世界選手権の表彰台へと連れて行く手段として演じる可能性のある、2つのプログラムを創り上げています。

僕のジャンプは以前よりも良くないと感じ始めました。技のつなぎと共に完成したプログラムを試みて、振付に入り込み、音楽を理解して、そして複数の難しい4回転をやるのは、リンクの端から端までジャンプを跳ぶスケーティングとは全く異なるレベルです。それから、スケートアメリカがありました。そして突然、僕はプログラムごとに複数の回転不足コールのターゲットになっていると気づきました。そのうち幾つかは相当な疑問がありました。そしてそれはインターネットで押し寄せた僕への直接的なヘイトにもなりました。全ては突然に、僕はクリーンなジャンプが跳べなくて、表現力もないのだと。僕は外側の影響を振り払って、自分のジャンプのどこがいけないのかを自分で判断する事に戻り、芸術性と演技構成を伸ばす事を続けなければいけませんでした。

僕は、何が僕にとって"クリーンな"ジャンプなのかを完全に再定義する事に落ち着きました。そして少なくとも最もクリアなジャンプを期待する事を始めました。自分自身の、最もクリアなジャンプの事です。そしてそれでも、アンダーローテーションのコールを受けました。僕は2019年の四大陸選手権を覚えています。完全に後方を向いた4回転ルッツー3回転トゥループをビデオの中で跳んでいました。最も未熟なコーラーからのレビューさえ無かったんです。そして、3回転トゥループがアンダーとコールされました。

その記者会見にて、銅メダルを取ったためですが、僕は世界選手権の目標は何かと聞かれました。僕はこう言いました。この競技会での成長と共に、初めての主要なISUイベントのメダルを獲得する事です、と。僕は世界選手権で銅メダルを取る可能性があると分かっていました。やはり五輪チームに入るのと同様、大きな賭けではありました。多くの要因が僕に相反していたし、他のスケーター達、世界選手権メダルを非常に有望視されたスケーター達の演技による所もありました。それでも僕は分かっていました。もしクリーンに滑ったなら、ショートで2つの4回転、ロングで3つの4回転、そしてセカンドマークにおける成長とがあれば、可能性はあると。そしてもし僕がそれを成し遂げたなら、僕の途方もなく凄い夢が現実となるのです。

それにより、僕は笑われてしまいました。人々はこう言ったのです、僕には出来ないと。こうも言っていました。僕がそれに相応しく優れているという、自惚れ屋になっているのだと。1ヶ月後に、僕は出かけて行って、彼らに見せてやりました。僕には出来ると言う事を、人々に証明したくて仕方がなかった。僕は自分の熱望を何もない事のように捨て去るのを拒否したんです。そして僕はやりました。すーーーっごく良い気分でした。そして1週間後、世界国別対抗戦に出て、ほぼ完璧なフリースケーティングもあり299点のスコアを取りました(300点って言おうよ)。世界選手権の銅メダルはただの"たまたま上手くいった"ものではない、という事を固く示した事になりました。

そしてこの全期間中、僕のクレイジーな旅路の始まりはジュニア・グランプリだという事、一度も忘れた事はありません。ブラチスラバの氷上に出ていった時の、あの畏れの感覚を忘れていません。絶望と同様に、自分が国際舞台に立つ価値があると証明するのだというハングリーな気持ちです。そのような道と共に歩んだ僕のスケーターとしての成長は、成功、失敗、苦しみ、決意、そして最終的には夢の実現の物語です。そしてこの道と共にある全ての困難にも関わらず、僕は他のどんな人生の中でも簡単な方向は選ぶ事はありません。それを選ぶと、今の僕自身にはなっていないでしょう。」

 

(ジュニアについて)

「ジュニア・グランプリで競技をしていた頃と同じ位にはジュニア勢は見ていませんが、それでも今の世代の子たちの事は追っています。彼らは素晴らしいと思います。僕が彼らのレベルにいた頃よりも優れたスケーター達が沢山います。彼らの成長を見る事、そしてまたゆくゆくは共に競技に出て、若い世代から背中を押されたり影響を受けたりするのは、すっごく興奮しますね。」

 

(コロナウィルスの影響でジュニアグランプリが中止になり、ジュニア世代への言葉)

「諦めないで!僕の上記のストーリーから皆さんが言える事は、僕は正しい猛特訓と献身、そしてどんな不可能な夢も成し遂げられるのだと、強固に信じている人間だという事です。それから少しアドバイスをするなら、五輪の4年間のサイクルを早くから考えると良いでしょう。僕は2016-2017のジュニアのシーズンに2018年の五輪チームに入る計画をしていた事が、実を結びました。」

 

(今後について)

「今は、完全に2022年五輪の表彰台に照準を定めています。今年のプログラムは、完全に五輪を想定して僕達は創り上げました。そして僕が今やっている事の全ては、その時が来た時に物事を確実にするためです。可能である最高の状態で行き、ずっと夢見ていたスケートをする事が出来るように…素晴らしい4回転と、素晴らしい演技と芸術性でもって。今シーズンの競技会の状況はまだ誰にも分かりません。ただ僕はコロラドで地方の小さなものに出ました。今シーズンを良い形でスタートが切れました。今年の僕のプログラムは2つとも大のお気に入りです。これらを大舞台で演じる事が待ちきれないです。僕が何を達成できるか、を見る事を楽しみにしています。そしてもう一つの世界選手権のメダルのために戦う事になるでしょう。」

 

終。

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途中の(300点って言おうよ)というのは、ヴィンセント選手の言葉です。インタビューのものをそのまま訳しました。悔しかったんでしょうね…。

 

国際スケート連盟のページに載っていたヴィンセント・ジョウ選手のインタビューでした。ヴィンセント選手はブログ主がとても好きな選手です。物静かな人ですが、とても演技に入り込むと人が変わったように集中して曲に入っていきます。大学生になり練習がままならない状況が続き、去年は苦しんでいましたが、今年はどうなるでしょうか。競技会が開催されるのか、発表があってもまだ疑問が残る状態ですが、ヴィンセント選手は五輪を見据えて取り組んでいるんですね。是非その夢が叶う所が見られたら…と思います。

ご本人が他のインタビューでも良く話していますが、「アンダーでは無いジャンプからでもコールを受ける。」という話。これは審判ではない私には分かりませんが、レビューなんかで私でも(あ、これは取られるかな…)て思うものも確かにあります。でも(これは大丈夫かな)と思っていたらコールがついていたり、それ以外にも沢山取られている事もしばしばで、厳しいのか、それが合っているのか、分かりませんが…良い演技をして明るい表情のスケーターが点数が出た途端に表情が曇る、というのは見ていて辛いですね。それとヴィンセント選手の場合はやはりセカンドマークがなかなか上がらない。ジュニアの頃はやはり、とにかくジャンプ、ジャンプでしたが、シニアに上がってからは見違えるようです。彼に合った音楽を選べている、とも感じます。北京五輪ではどうなるのか…見守りましょう。

 

北京五輪もそうですが、東京五輪も本当にやるんでしょうか…正直2022年もちょっと雲行きが怪しくなってきたなと思ったりします。あまりにも感染の危険が避けられないとか、まだまだその頃になっても世界中で感染者が出ているとか、であれば、悲しいけれど無理に開催してほしくありません。恐ろしい事です。どうなるんでしょうか……。