2014年のブライアン・オーサーコーチ、ジャンプや五輪、指導について語る。

先日のポッドキャストに、2014年のブライアン・オーサーコーチのインタビューがありました。ちょっと懐かしい気持ちにもなり、一部を抜粋して訳して行きたいと思います。少し前なのに、とても時間が経ったような気がします。

 

ポッドキャストこちらです。

I→質問者

B→ブライアン・オーサーコーチ

 

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I︰多くの質問を用意していますが、まずはこの質問を私は聞くようにしています。他に選択肢はありません。オフアイスでもオンアイスでも、最も恥ずかしいスケートの瞬間は何ですか。

 

B︰(笑)なんて事を(笑)そうですね。オンアイスだと、80年代にワンピース形の、つなぎのコスチュームを着ていて、それは股の所から首までジッパーがあったのですが、それが演技途中にポンと外れてしまったんです(笑)それが1番ですね。

 

I︰ポンと外れて…どうなったんです?(笑)

 

B︰ただポンと外れたんですよ。それで剥き出しになったんです、首からずっと下まで…分かるでしょ(笑)

 

I︰ええ、分かりました(笑)それでは、どのようにしてスケートを始めたんですか?

 

B︰僕はまずアイスホッケーを始めました。でもその頃の僕のスケーティングは本当に駄目で、両親は僕にフィギュアスケートをやらせたんです。僕は5人兄弟の末っ子で、両親は僕達に積極的に色々とやらせました。スキー、スケート、ホッケー。僕は姉が2人いて、その2人もフィギュアスケートをしていたんです。それで、僕のスケート技術は大抵はアイスホッケーのためのものでした。そういう感じで始まりました。

そしてドン・ジャクソンがある年に僕達のスケーティング・カーニバルのゲストスターの1人だったのです。僕はとても若く、8歳か9歳くらいで。実は彼が僕の才能に気づき、両親に伝えました。「何かレッスンを受けた方がいい。生まれ持った才能があるから」と。そして両親がやらせました。そういう感じで始まりました。

 

I︰まぁ、それは良いですね。ドン・ジャクソンの推薦とは。

 

B︰冗談とかでは無いですよ。彼がゲストスターで、僕はスケート・カーニバルでソロの演技があって、彼と同じ練習の氷を共有していました。僕は初めてのソロの演技で…僕は氷上へ行って彼に見せつけようとしました(笑)

 

I︰分かりました(笑)そして貴方はとても若い頃からコーチのダグ・リーに指導を受けました。素晴らしいカナダ人コーチです。私が気づいていなかった事があったのですが、彼は当時19歳だった事です。

 

B︰はい。彼が僕のコーチを始めた時には19か20歳でした。彼は僕の最初のコーチであり、唯一のコーチでした。当時は珍しい事だったんです。ブライアン・ボイタノも、リンダ・リーヴァーと同じ状況だったと思います。彼は8歳か9歳くらいで、彼女も同じ頃に指導を始めました。そして全ての事をずっと共にした。当時ではかなり珍しいです。

 

I︰非常に珍しいですね。でも素晴らしい事です。彼はそんな若い年齢からずっと一緒にやってきたとは。

 

B︰本当に。その中で失敗もありました。そこから多くを学び、そして旅は僕達2人にとってのものでした。素晴らしい事です。

 

I︰貴方は初めてナショナルで優勝して…貴方はとても上手かったんですよね、かなり早い段階から。1977年にノービスで優勝。その段階で、貴方はこう思ったのでは?「ワォ、僕はいつか五輪へ行けるんじゃないか」と。

 

B︰いえ、実際そう考えた事はありませんでした。シニアで優勝するまでは、1981年でしたね。僕は1980年に五輪を見に行ったんです。レークプラシッドでの開催でしたから。僕の父がコカ・コーラの会社と関わっていたので、チケットが貰えたんです。それで僕達は車を走らせて、フリーを見に行きました。その時でさえ、僕は五輪の雰囲気を感じただけでした。その次の年まで、僕が実際その場に行く事は考えもしなかったのです。その後に僕は「おお、これが五輪への道のりなんだ」と(笑)そんな感じでしたね。

 

I︰まぁ、競技に出ていても考えていなかったと?

 

B︰はい。僕は本当に未熟で純粋で…それが良かったのではないかと。僕が1984年(サラエボ五輪)で2位になった時でさえも…その、ジャーナリスト達が僕に言ったんです。「これがカナダ人男性が成し遂げた最高の順位ですよ」と。我々には何度か銅メダルがありましたが、銀メダルは初めてでした。それで僕は「えーっ、そうなんですか?」と(笑)そういう事を知りませんでしたから。そんな事は思ってもみなくて。かなり興味深かったです(笑)

 

I︰ええ、恐らくはそうでしょう(笑)ではサラエボ五輪の話に行く前に、少し時間を戻しましょう。貴方は世界ジュニア選手権に出場しました。そして順位はブライアン・ボイタノに次いで4位でした。そこから10年に渡って彼と戦いましたが、その頃には友人でした?

 

B︰その時が彼と初めて対峙した時でした。そして当然、僕達は同じ名前を持っていました。僕の推測では、僕達は仲が良かったです。文通をする仲になったとかではありませんが。ただ、僕は分かっていました。彼とはずっと会うことになるだろうと。その時、ロシア人のウラジーミル・コティンが2位で、デニス・コイ(カナダ)が1位でした。そして、それは僕達全員が出場した1988年の五輪から10年前の事でした。その世界ジュニア世界選手権での最終グループ6分間練習にいた内の3人が、同じ五輪に出場していたんです。僕とブライアン、そしてコティンです。

 

I︰その時が貴方が五輪というものに気づいた時ではないですか?世界ジュニアですよ(笑)

 

B︰いえ、僕は五輪とかは考えていませんでした。ただ一歩一歩、1つずつ進む感じで。五輪は考えませんでした。

 

I︰貴方は1979年に、トリプルアクセルを降りた2番目のスケーターになりました。ジュニアでの演技で、ジュニアのナショナルで優勝しました。既にノービスでも優勝していて、ジュニアでも。貴方より前に、別のカナダ人のヴァーン・テイラーが(3Aを)やり遂げていました。勿論その映像は野外のリンクでのもので、まるで50年代のようなものですけれども(笑)

 

B︰知っています。サンバレーでのものですね。

 

I︰野外での、サンバレーのもので…驚きです。連続でカナダ人がトリプルアクセルを降りたというのは。それは目標でしたでしょうか。テイラーがやった事を見ていて、どのように取り組んだのでしょう?

 

B︰実際、僕は1978年に練習を続けていました。世界ジュニア選手権での練習で、です。そして、そこでは噂が流れていましたが、僕は試合で成功させる事が出来ませんでした。ヴァーン(・テイラー)がレパートリーに加えた事を知っていたので、何というかレースのようだったんです。誰が最初にやるのか、という。そして彼が降りました。でも僕の(トリプルアクセルは)は良いものでしたよ(笑)

 

I︰あはは。でも素晴らしい事は、貴方は本当にマスターで、2000年に貴方の誕生日に挑戦して、降りた事です。

 

B︰2000年のグッドウィル・ゲームズで降りました。あの時もまだ出来ましたね、でも今となっては思い出です。今はもうジャンプは跳びません。子供達と共にスケートをして、教えています。もうやりませんから。残念ですが、それが別の道へ進むポイントとなります。よく夢に見たりはしますけどね。アクセルを跳んでいる夢を見て、シングルアクセルとか…そして目が覚めて、その素晴らしい感覚を思い返します。

 

I︰素敵ですね、それが聞けて嬉しいです。私もいつの日かダブルルッツの夢を見れたらいいんですが(笑)

他の貴方の素晴らしいビデオというと、1985年にジョセフ・セバスチャンと一緒に4回転の練習をしているものです。素晴らしいです。貴方達はとても仲良く見えて、「僕がやるよ」「いや僕が」と。

 

B︰はい。僕達は試合で競っていましたが、とても良い友人でした。実は彼がカナダで練習できるように、僕は後援していました。1985年くらいの、夏頃です。想像できるでしょうか、僕たちは世界選手権で2位と3位になって、自分と一緒にトレーニングするために、僕が競技者を後援したんです。でも僕は友人を手伝う以上の事とは考えていませんでした。彼がカナダに来るためにチェコスロバキアで、チェコ共和国で僕達は全ての書類に関する事をやりました。僕達は良い友人だったんです。そして、そのビデオはとてもクールですよ。多くの僕の生徒である子供達は、僕が何をしたかを気付いていないんです。若しくは、僕が話すまでは、僕が4回転をやっていた、なんて事は知らない。僕は全ての4回転をやっていました。全て。4回転ルッツ、サルコウ。4回転トゥループは跳べました。

 

I︰その当時のビデオがあるって凄い事ですよね。今は皆がポケットにそういうものを持っていて撮影できますけど、当時は違いましたから。

 

B︰そうですね。ですからそのビデオがある事は、僕が話す事を確証するのを助けてくれますね。とてもクールな事です。

 

(中略)

 

I︰五輪の話に行きましょうか。1984年には、スコット・ハミルトンが貴方が倒すべき選手でした。これは振り返ると私が不満を言うものなんですが、貴方はショートで勝ちました。素晴らしくね。そしてフリーも勝った。貴方はトリプルアクセルを五輪で降りた初めての男性スケーターでした。ですがフィギュア(コンパルソリー)の順位のために、貴方は勝てなかった。これは貴方を苛立たせるものでしたか、ショートとロングへ向かうにも、何も出来ることは無いのだという事に対して?若しくはプレッシャーが少なくなりましたか?そこには壁があり、「どうしたら出来るというのか?」と。

 

B︰ええと、僕は出来るだけの事をやらないといけませんでした。コントロールする所はしないと。残りのものはコントロール出来ないのです。僕が以前の採点システムを振り返る時には…皆が今の採点に不満を言いますが、昔の採点は、とても変だったんです。僕は上回る事は出来ない、例え大差でショートに勝っても。それでもまだ順位に差がついていて、追いつけない。それは苛立たせるものでありました。何故なら他のスケーターの助けが必要だったからです。スコットはショートとロングで3位になる必要がありました。合計で僕が勝つにはね。それからロングへ向かう時には、彼が5位になる必要がありました。そして周りを見渡して、他の選手達を見ると、「おや?彼は5位でもなれる。」と。そこにはジョセフがいて、ファデーエフがいた。その他にも、もう一人、自分を加えても。誰も他の選手に酷い滑りをして欲しいだなんて思わないものです。でもそこには十分に優れた選手達がいましたから、可能性としては起こり得ました。可能性はあった。それは起きませんでしたが。何だかおかしな話です、きついですよ。厳しいです。ある選手が光を失ったような演技をしても、まだ勝てるんです。古いドナルド・ジャクソンの頃の採点法とは違いました。彼はフィギュアで負けていても、フリーで全て上手く行って優勝したんです。彼はそれほどの事が出来たからです。

 

I︰それと、当時はショートが無かったですよね。それは違いました。

 

B︰はい。その通りです。そしてフィギュアとフリーの(採点の)割合は60︰40でした。フリーが40だったと思います。僕達の時だと50︰50だったと。

 

I︰では、貴方は旧採点よりも今の採点方法の方が良いと思いますか?

 

B︰はい。そう思います。新採点の方がいいと思います。僕の友人達や同僚の何人かは、これについて僕に同意しないでしょうが、僕は更に良いスケーティングをもたらすと思うのです。全てに優れたスケーターを。そして、何処の出身でも上手くやれるんです。最初にとても良い活躍を始めた一人はステファン・ランビエールです。彼は旧採点においては常に影に隠れているような感じでしたが、新採点では本当に輝く事が出来ました。彼には素晴らしいスピンがあり、優れたジャンパーで、解釈に芸術性…演技や表現力、彼は全てを持っていました。僕のお気に入りのスケーターの1人です。彼が上がってくるのを見るのは良い事でした。スイスは男性スケーターのチャンピオンがあまり良く知られていない頃でしたから。だから、このシステムが大好きです。

 

I︰素晴らしいですね。私は多様性が好きです。私はこのシステムのファンではない見方をする人々に会ってきましたが、貴方が言うように色々な所に広がるのは好きです。

 

B︰僕の職業から、指導している所から見ると、とても気にいっています。ただ観客にとっては理解が難しいのです。そして僕もそれは分かります。今年ISU議会において、この採点における透明性を否決したのは、惜しい事です。きわどかったんですが、それでもシャットダウンしました。僕を困惑させます。

出てくる点数を説明する義務がある、誰かがいるべきなのです。そして、その後ろにいる人の顔が見えるべきです。審判達は顕微鏡に覗かれていなければいけない。スケーターはそうです、コーチもそう、そして審判はシステムの裏に隠れている。これは公平ではありません。正しいと思わないです。私は審判達がプレッシャーを感じるべきだと思います。彼らは物凄いプレッシャーのかかる状況におかれます。そうです、彼らは私達全員が感じているように、プレッシャーを感じるべきです。審判達はその中ならもっと良いジャッジメント・コールをするかもしれない。本当にプレッシャーがある時には、恐らく更に良いパフォーマンスをすると思います。スケーターも、コーチもです。審判もそうあるべきです。でも彼らは快適な所にいて隠れる事が出来ます。この(透明性を無くす)全てのアイデアは審判を守る事です。そして完全に後退していくと私は思います。

 

I︰貴方はまた、この採点方法には穴があると言っていました。特に五輪の後、ハビエル・フェルナンデスがお説教を受けた後にです(笑)

 

B︰はい。あれは不運な事で…このシステムには定期的に引っかかるものがあります。要素を無効にする代わりに、選手が取れた要素のパーセンテージが残るべきです。60%か、30%か…何かしらのものが。何故なら選手がただジャンプが抜けてしまった時には、ハビのように4回転が3回転になったら、もう雪だるま式に問題が起きます。

その、僕達は一ヶ月まるまる過ぎても「もし、仮に…」と。4回転が、コンボになるはずだったもので、彼はそうすべきだった。そして特に注意深く選ばないといけなくて、最後の最後に4回転だったなら、もしそれを回転していたなら、それで大丈夫だったんです。それを振り返って、ある段階に来たら、前に進まないといけません。あれは不運でした。そして僕達は二度とあのような失敗はしない。

 

I︰では、また少し80年代の始めに戻りましょう。スコット・ハミルトンと戦うのはどんな感じでしたか?

 

B︰そうですね、僕は大ファンだったんです。同じツアーに出ていた頃を覚えています。毎晩、彼のスケートを見ていました。何故なら彼は素晴らしく、楽しくて、エンターテイメント性があったからです。全く素晴らしいスケーターでした。彼は強い競技者であり、勝つ事が好きでした。僕は1984年まで、彼にそういう事を許していたと言えます。いい加減にちゃんとしなきゃいけなかったんですが、僕も良いスケーターだったんですから(笑)

1984年に、僕は少し彼の居場所を騒がせたと思います。練習の時に。彼はミスのないロングプログラムの通し練習をして、疲れさえ見せなかった。そして彼は僕を見て、僕を見下す感じで、まるで「そんなものかい?」と。彼も覚えているし、僕も覚えています。「そんなもの?君が出来る全てはそれだけかい?」という感じでした(笑)そして、彼はコンパルソリー・フィギュアがとても優れていた。それが彼を守っていたのものです。

 

I︰貴方は五輪の銀メダリストになった数年後に世界チャンピオンになりました。それから、これは貴方のせいですよ、貴方は初めて1つのプログラムに2度のトリプルアクセルを入れたスケーターになりましたね(笑)そしてショートを含めると、1つの試合において3度のトリプルアクセルを降りた初めてのスケーターです。その後に、それが難易度の基準となりました。

 

B︰分かりません。僕が考えていた事といえば、プログラムを揃える事でした。僕達は幾つか失敗もしました。そして僕は非常に競争心が強く、僕が好調な時には、僕は証明したかった。プログラム後半にトリプルアクセルを跳ぶ事によって、です。そして僕がそれを振り返る時、「関係ないだろう?」と思います。まずはトリプル・ルッツから始まり、そしてトリプルアクセル。多分、後半へ行く中盤の前には、どんな人間でも出来るでしょう。それは賢いやり方です。でも僕は4分経つのを待ちました。最後の方にやる事を考えたのです。1987年と1988年にそれをやっていました。そして僕は、「よし、審判達は僕の功労を報いるだろう、僕はこんなに調子が良いのだから」と。でも彼らは気にもかけなかった。彼らはページの中のチェックマークを見ているんです。それは重大な失敗でした。僕自身と、コーチング・チームがおかしてしまった失敗です。

 

(中略)

 

I︰私は貴方が1988年カルガリー五輪の開会式で、カナダの旗手をした事実がとても気にいっています。物凄い事だったでしょう。自国(の五輪)で、そこを歩いて…

 

B︰本当に特別です。本当に物凄い事です。言い表す言葉も見つかりません。僕は自宅にその写真を飾ってあるのですが、たびたび写真を見ます。ただ素晴らしかった。

 

I︰私は88年の五輪が大好きです。恐らく私の1番お気に入りのものです。私が指摘するのは限りなく素晴らしい演技の事です。伊藤みどりがいて、エリザベス・マンリーがいて。それだけでなく、テレビジョンのやり方のピークであったかと思います。「2人のブライアンの戦い」だけではなく…貴方達の名前からきてますね(笑)「2人のカルメンの戦い」もありました。ただ素晴らしいと思いました。

そして貴方達は2人とも軍人の音楽を使いましたよね。どうしたら2人が軍人の音楽になるんでしょう?貴方達はきっとお互いにこう言い合ったのでは?「ちょっと待ってよ」と(笑)

 

B︰いえ、いえいえ、全く。何故なら初めて彼と戦ったのはスケートカナダでしたから。そして今あるようなソーシャルメディアは僕達にはありませんでした。ですから、そこへ行ってみないと本当に分からなかったんです。僕の練習をサンドラ(・べジック)、リンダ、そしてブライアンが見ていたのを覚えています。僕が彼の練習を見た時の事もね。それは、ただ偶然でした。僕達は皆さんのために、更にエキサイティングなものにしたと思います。

「2人のブライアンの戦い」は、誰もが期待したように動いていきました。始めから、ほろ苦い終わりさえも。あれよりも優れた脚本なんて書けないでしょう。まぁ実際僕なら出来ましたけれど(笑)その、つまり、彼はフィギュアで2位で、僕は3位でした。そして僕はショートで1位で、彼は2位でした。それから僕達はロングへとハラハラする状況で行きました。誰も失敗せず、誰もタオルを投げる事はなかった。最後まで良く戦いました。だからこそ、ファンにとって興奮するものとなり、だからこそ人々は覚えているのでしょう。もし僕が(1984年のように)フィギュアでまた7位になったら、もうそれでゲームオーバーだったんです。ただ上手く手行った事に感謝しています。

 

I︰あの演技は本当に最後まで上手く決まったと思いますよ。何故ならブライアン(・ボイタノ)がこう言っていました。バスルームで彼はどうやってヘッドホンを外したか、と。彼は貴方が勝ったと思ったと。

 

B︰はい。ヘッドホンをしている必要があります。そしてもし6.0のコールが聞こえたら、ヘッドホンを外すでしょう。僕が9番目の審判のセカンドマークで6.0を聞いた時、僕はただ、やった、僕はやったんだと思いました。その、本当に最後の最後までですが(笑)

 

I︰あの年の五輪はよく覚えています。少し夏の五輪で乱雑な事がありましたし。酷いパフォーマンスがあって。そして(カルガリー)五輪では、全てが、ペアにアイスダンス、全てが最後まで素晴らしい演技を見せてくれました。貴方にとっては更に厳しいものでしたか?自国開催で、サラエボ五輪よりも大変だったのでは?

 

B︰はい、確実に大変でしたが、準備は出来ていました。僕にはピーター・ジェンセン(スポーツ心理学者)の課題があり、それに向けて準備を整えていた。どこへ行ってもハイ・ファイブをしていました。金メダルへ向かう道は、一年中ノンストップでした。それは、ただそういうものだったんです。どこに行っても皆が応援してくれて。全てを包み込まなくてはならず、パニックになりました。でもまた、自国開催がどれほど素晴らしいものか、という事もありました。素晴らしかった。ですから、僕は全ての事に準備が出来ていました。どこか別の場所で、と望んだ事はありませんでした。

 

I︰今の所は、あの五輪は資金が報われたもののようですね。私の理解では、あの五輪から10年経っても人々は88年の五輪の演技を見ていました。今振り返って、どうですか?

 

B︰かなり驚くべきものであったと思います。皆の経験がそうであったと。どの人が誰とか…。僕は未だにテレビを通してでもユーチューブを通してでも緊張やプレッシャーを感じるんです。そして「誰がこんな事をうまく出来るというのか?」と思います。それから、「あれ、僕が出来るじゃないか」って(笑)でも、違う人のように見えます。 

 

I︰貴方はスターズ・オン・アイスや他のショー、カルメン・オン・アイスなどで美しいスケートを見せました。貴方には長い間の素晴らしいプロフェッショナルのキャリアがありますね。楽しみましたか?

 

B︰17年間です。17年間、全ての事を楽しんでいました。一緒にやって来た人達と共に楽しみました。僕達が関わった様々な事業はそれぞれが挑戦で、テレビだったり映画だったり、スターズ・オン・アイスを地味な所からスケーター達のショーにしたり…色々と投入してみて、違う方向性をやったりしました。観客が何を見たいのか、僕達が何をやりたいのか。そして素晴らしいショーへと変わったのです。

僕は本当に幸運でした。タイミングがとても良かった。何故なら1980年代後半から1990年代前半のフィギュアスケートの人気は凄まじく、僕はまだゲームに出ていました。プロの競技会に出て、色々な場所へツアーで行きました。色々な事があり、僕はあちこち飛び回っていたんです。ただ、その事については完璧に大丈夫でした。収入もすごく良かったし、とても気に入っていました。17年が過ぎて…ああ、なんて事でしょう。そんなに時が経ったんですね。

 

I︰そうですね、貴方はそれほどのフィギュアスケート人気の中にいました。素晴らしい人達のグループの中に。それから貴方は新しいスケート・ショーなどの先駆者でもありました。本当に素晴らしい。

 

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インタビュー前半から抜粋しました。色々楽しそうに話されていて、前半と後半に分ける事にしました。ちょっと昔のインタビューですが、なかなか面白い話が多いな、と思います。

 

続きます。。。