スピンの女王、ルシンダ・ルーさんが語る日本でのトレーニング。

少し懐かしいものを訳したいと思いました。フィギュアスケートの素晴らしいスピンを披露したスケーターというと、何故かスイスの選手が例に上がります。デニス・ビールマン、ルシンダ・ルー、ステファン・ランビエールサラ・マイアー…。スイス代表はスピンが上手くないといけないのか、というプレッシャーでもあるかのように、いつの時代にも素晴らしいスピナーがいて、有名な選手は皆フィギュアスケートの歴史に残るようなスピンを披露したスケーター達です。

中でもルシンダ・ルーさんはとても美しいスピンで有名です。あれほどのスピンは未だに出来る選手はいないのではないでしょうか。6.0で必ずしも複雑なスピンを必要としなかった時代に、この選手は新しい形を披露していました。

そしてルシンダ選手は家族の都合で日本に住んでいたことがあり、佐藤信夫コーチの指導を受けていました。80年代、90年代の話で今とは色々と違うとは思いますが、当時の練習はどうだったんだろう、辛くなかっただろうかと気になっていました。その事を語った内容がありましたので、その部分だけ訳していきます。ポッドキャストのインタビューで語られた話です。インタビュー自体は2011年のものです。

 

ポッドキャストこちらです。

 

I→質問者

R→ルシンダ・ルーさん

➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖

【ルシンダ・ルー︰2011年のポッドキャスト・インタビューより、日本での練習について】

 

I︰貴方はパリ(子供の頃は親の仕事の関係で世界中に引っ越していたらしい)から日本へと引っ越しました。そして佐藤信夫コーチとレッスンをしたいと思った。でも彼は貴方に、「見合った価値があるか」を証明させたと。この話は私の心を殺すものです。彼は貴方に、自分一人でトレーニングに6ヶ月間、毎日来させて、その後に貴方に与えたのは1週間の内たった20分でした。それは私から見ると凄い話ですよ。6ヶ月も彼は練習を見る事をやめなかったとは?更に彼を大変にさせたでしょう。

 

R︰日本では、尊敬と忠誠、そして規律をとても重んじるのです。それは多大なるレッスンとなり、たくさん教えてもらったと思います。例え7、8歳の子供だとしても。それは、考えたらとても痛みを伴うものでした。「なんてこと!私は本当にそんな事をしないといけないの?」と。他の友人達はレッスンをしていて、私は自分でトレーニングをしているような感じでした。そして、私は本当に毎日そこへ行かなければいけませんでした。そうでなければ彼は「そうか、この子はスケートにあまりやる気がないんだ。そして規律も無い。」と思うでしょう。

ですから私は毎日行かないといけませんでした。それがあって私の母は常に私の側にいるようになりました。私は他に誰も知らなかったんです。私は8歳で、母親から当時は色々と学びました。そして彼女は私のスケートを手伝ってくれたのです。完全なコーチとはいきませんが、母親として、私を少し導いていました。その時に私達は本当に本当に強い繋がりが出来たのです。ええ、私は6ヶ月間、待たないといけませんでした。彼が最初のレッスンを与えてくれるまで。

 

I︰その決心は素晴らしいと思いますね。私は米国で何年も、証人となる子供達を見てきましたけれど、米国ならばコーチをクビにして、違う人を雇いなさい、となりますから。

 

R︰私が話したように、子供だけの事ではなく、両親の事もあります。彼らが、これには対応しきれない、別のコーチを雇おうと言えます。でも私達は外国にいました。私が思うに、人が別の国に住んでいる時というのは、これは苦痛とも言えますし、また助けにもなります。一人の人としてです。スケーターとしてだけではなく。私は部外者でした。私達は日本にいて、私達だけが外国人だったのです。私の母と父はこう感じていた事でしょう。もし私達が彼らの文化に合わせなかったら、私達は彼らの社会に受け入れられる事はない、と。それは非常に強固なもので…でも私達はいつも外国にいました。

米国なら自分で喜んでやれるでしょう、貴方が米国人なら。ホームですから。私はスイスで育ったのですから、そこがホームになります。それは違いがあります。少し驚かされましたが。でも常に違う国にいて、私達は常に部外者だったのです。いつも私達だけが蚊帳の外にいました。ですから両親が感じた事はおそらく、もし私達がそうしなければ、誰も私達の子供を受け入れてくれないだろう、という事です。そして、私が"自分自身"を感じ始めた事でもありました。私は常に誰か他の人の信念や文化に従わなければならず、私は一度も私自身ではなかったのです。

それには良い所も、悪い所もありました。私にとっても凄い事でした。そして6ヶ月待っていたんです。でも、ただ1週間に1度スケートをして待っていたのではありません。毎日、数時間は滑っていました。

ただその頃は、彼は恐らく「あの子はただの、7歳の少女だ」という感じだったでしょう。そして彼には娘がいました。ユカです。多分かなり多くの時間を娘に割いていたと思います。でもそれが真実なんです。そして私は待つ事が出来ました。自分でやれる事をやっていました。それもまた私の性格だと思います。全てを前向きに捉えようとしていました。

私も凄い話だと思います。誰かがこの話を聞くと…。私は子供に同じ事をするとは思いません。まぁ、分かりませんけれども(笑)

 

I︰私の予想では、その状況は貴方の心を殺す事は無かったのですね。

 

R︰ええ、ただ外国人としては、決められる事というと文化に合わせるという事です。全ての文化に対して逆らって進む事は出来ません。

 

I︰その事に関してですが、貴方は実際には日本で子供の頃いじめられていました。外国人として。貴方の母親さえも、他の子供をリンクへ車で送ったりしたと。そして車の中では、後ろの座席で日本語で何を話していたのか分からなかった…酷いものです。

 

R︰はい、それは酷い話の1つです。多くの事があって…ただ、学校は素晴らしかったのです。インターナショナル・スクールで、17カ国の国籍の生徒がいました。私は学校の一部分にいたと言えます。私には沢山の友達がいて、彼らは私のように日本の文化の事で恥ずかしい思いをしたりする事はなかったんです。彼らは帰宅しても家族や友達といて、彼らと同じ文化、出身地と同じ所にいたのですから。でも私の場合は、アイスリンクで完全に日本の文化の中にいました。私だけが外国人で。私の妹もいたんですが、彼女は2、3年日本に住み始めてからスケートを辞めてしまいました。だから本当に私一人だったんです。

私が思う事は…スケートとは…国家主義的なスケートでした。米国だと他の文化圏から来た色々なスケーターを一緒に教えますが、日本では、特に80年代、90年代においては、島国ですから。遠いんです。日本人の指導者に、日本人の生徒です。日本人コーチは日本人ではない生徒のために、そこにいる訳ではありませんでした。私は日本のためには滑っていません。ですから多くの子供達は恐らく、私がコーチの時間を取る事を無駄な時間だと思っていたと、思います。その時間をもっと自分達に使って、と。それが子供達が私をいじめ始める事になったと思います。「時間の無駄、家に帰れ、ここに居るべきじゃない」って。

8、9、10歳の子供には、受け止めるのが厳しいものでした。忘れないでほしいのは、私は4歳で日本へ行ったんです。その頃の私は、全て分かっていたように思っていました。勿論、全ては分かりませんでした。以前はパリにいたのですから。でも4歳だと、友達のようなふりをするものでしょう。リンクで私は日本人のように振る舞うようにして、日本語を話して、箸でご飯を食べました。そして更に年齢が上がり、文化を学び始めます。文化を理解して、彼らが何を話しているかを理解しました。そして8歳の時には、彼らは私を外へ追い出そうとしました。

それは、とても日本的なものです。島国なのです。自分達だけを保ち、分けようとする歴史を持っていたのです。自分達だけにしようと。それは、そこまで大変ではありませんでした。私の性格も恐らくそこからまた形成されました。多くの事を維持する事を助けました。後からやって来るものから。

 

I︰驚きでは無い事ですが、貴方がスケートで成功してから、最も酷いいじめを受けたのですね。驚きはしません。でも対応するのは簡単ではないでしょう。

 

R︰子供としては、その事への対応は簡単ではありません。何故なら自分がやっている事で最善を尽くそうとしますから。そして私には非常に厳しいコーチがいました。アジア人は厳しいのです。それから私の両親はスイス、ドイツ人です。頑強で、規律のある人々です。重労働を第一と考えます。そして言い訳は許されません。私の母が言うには、戦争中に、戦士たちはロシアで肋骨を失ってもまだ働いていたと。それとは比べ物になない、と(笑)

ですから子供心に私は…ただ懸命に練習し、更に良くなろう、そう思いました。それから上手くなるにつれて、私はどんどん孤独になっていきました。その部分において、私は独りぼっちになったのです。ただ、一般的にスケートというのは、孤独なスポーツです。特にシングルというのは。ペアなら、もう少しパートナーとの仲間意識があると思いますが。でもシングル・スケーターとして時々…少なくとも、私は全員が私に背を向けていると感じていたのです。多分、私の母親以外は。分かりますでしょう?

その瞬間は、私は孤独になりました。再度言いますが、私だけが外国人だったのです。それが私の中の非常に大きな部分を占めていました。

 

I︰私は(インタビューを通して)色々おかしなトレーニングのスケジュールを聞いてきましたが、貴方はかけ離れて凄いスケジュールを持っていました。貴方の母親は、貴方がウォームアップをしている時に、後ろから車を走らせていて、貴方は何時間もオフアイスでウォームアップをして、オンアイスでも何時間も過ごした。柔軟性を持つために骨を失って、眠りもせず。そして学生としてもやっていた。

 

R︰ええ、それはドイツ人的な重労働です(笑)まるで雪だるまのようなものですね、どんどん大きくなっていく。私が駄目になったら止めますが、理由もなく止まることはありません。何も疑問に思う事はありませんでした。私の中に目標があったんです。その目標とは、五輪チャンピオンになる事ではありませんでした。金メダルを取る事でもなかった。多くの子供が「私の夢は五輪チャンピオンになる事」と言います。それは美しい夢ですが、私は夢見た事はないです。私がスイスに住んでいた頃、私の父が言いました。「スイスでもっと良くならないと」と。当時は既にデニス・ビールマンがいて、ナタリー・クリークがいました。そしてショーを見て、父は私に「彼女達よりも良くならないといけない」と言ったんです。「私が歴史に名を残すには、誰もやった事が無い事と戦わなければ」と。それを私に言ったのは信じられない事ですよ、私は7歳でしたから。それは私の心に留まりました。それが私の目標だったんです。誰もやった事が無い事をやってのける、という事。ですから雪だるまのように進み、疑問もなく「私達はやらなければ」という感じでした。何一つ疑問に思ったりせずに。クレイジーです。

私は母の運転する車の前を10分走らなければならず、そして車に飛び乗って朝食を食べて、リンクでまた走り回りました。ウォームアップ、スケート、スケート、スケート。そして学校です。私はフルタイムで学校に行っていたのです。今の子供達にはもっと自由があります。ホームスクールもありますし。特に80年代90年代にはホームスクールはそこまで人気ではありませんでした。特に、日本、アジアにおいては。難しい事でした。それで私は学校に行って、また夜10時30分までスケートをして、家に走って帰りました。まさにノンストップでした。土曜日もノンストップ、日曜日もノンストップ。どこかで外泊する事などは、聞き入れてもらえませんでした。でもほら、私も分からなかったのです。私の成長の中で、その事を恋しいだとか思ったりしません。私は学校に通っていましたが、その頃といえば、学校の外では彼らを(学校の友人を)切り離していました。実際そういうものが存在していたと、分からなかったんです。私は自分だけの狭い世界に住んでいました。

 

I︰貴方はまた、トレーニングがクレイジーで狂気的だったという事だけでなく、日本人コーチ達が生徒を叩いている所を見たそうですね。そしてそれは受け入れられたものだったと。

 

R︰はい、当時は受け入れられた事でありました。コーチも違いますし…。もし十分に練習に励んでいなければ、または何かを十分に上手く出来ていなければ、その結果に起こる事です。その後は、両親達がリンク外で引き継いでいました。それは何というか、普通の出来事だったのです。

1つ、とても酷い事がありました。覚えていますが、私が朝も夜もリンクへ行くと、リンク脇のカフェがやっていたんです。当時はまだコンパルソリーをやらないといけませんでしたから、大きなリンクがあって、その隣に小さなリンクがありました。そして広いカフェもあったんです。そこへ良くコーチは男の子を連れてきていました。その子は12、3歳くらいで、カフェに行くと、母親も見ていました。私達がトレーニングしていた間で、その子には最も長い間、殴っていました。その子を殴って、殴って、そして男の子は叫んでいたんです。私達は少し音楽を大きな音で流そうとしました。そうして声を聞かないで済みます。そして、男の子は震えていました。震えていて、殆ど真っ直ぐに歩けないほどでした。彼は毎日でも震えていました。この事を思い出すと、それが行われている間は、私はまともに滑る事すら出来ませんでした。お腹の調子が悪くなってしまって。でも、誰も何もしませんでした。それは、ただ起きていたんです。そして次の日もまた、起きていました。

 

I︰男の子はどんな子?

 

R︰いえ…すごく気になるんですが…私が日本を出てからは、彼には会ったことはありません。だから分からないんです。ただ両親達が引き継いで(叩く事を)やっていました。私のコーチは私を殴った事はありません、私の身体に触った事もありません。ですから思うに、母は自分がやる番だと考えたのでしょう。皆がやっていた事ですから。彼女はそれを見ていて、そして引き継いでやりました。

 

I︰貴方の書いた本を読むと、貴方の母親は貴方を愛していて、貴方も母親を愛していた。とても痛みを伴うものでも、彼女は最高の母親だ、とありました。彼女は貴方を叩いていたとしても。

 

R︰はい、その部分は誰も知りません。何故なら私の母親は公の場では叩きませんでしたから。

 

I︰当然です。

 

R︰私は(本に書いて)確かなものにしようとしました。多くの人々はその事により傷つき、動揺すると言います。勿論、私もそうです。特に貴方の母親がそういう事をしたら、当然そこには痛みがありました。私もそう感じました。ただその背景に、彼女にはたくさんの苛立ちがあり、それがその行動を起こさせたのです。私は理解する事が出来ます、殆どにおいては。彼女の不満のために殴る事を、私が受け入れるのです。何故なら私の父親は95%の時間は旅をしていました。そしてもう一度言います。私達は外国にいたんです。外国の言語の中にいました。それは、ドイツからパリ、カナダから米国へ行く事のようなものではありません。スイスからアジアへ…大きな違いがあります。文化的にも、言語の点でも。そしてただ一人の子の母親として居る事は、とても大変な事です。父親は支援するためにその場へ行く事は出来なかったんだと思います。この場合、感情の面においては。

スケートの不満というのは、1日に20分しかないレッスンから来ていたと思います。競争心を持って、他の両親達がやっている事を見ながら、私のコーチは私に触れもしない。それが、私がより上手く演技できるように、母親へのプレッシャーになっていたと思います。子供としては、彼女が私にやっている事の理由は全く分かりませんでした。何故って私はとにかく懸命に練習していましたから。だらしなかったり、やろうとしない、なんて事はありませんでした。そこに関しては、私をもっと傷つけました。何故母親が私にそんなにも怒るのか、理解出来ずにいた。それは実際殴られた事よりも、感情的に傷つくものでした。でも分かりません。それはただ起こっていて、私には何も出来ませんでした。ですから私が出来る全ては、その事を振り返って、理解しようと努めて、そして前に進む事です。

コーチが常に言っていましたが、準備をする事に対して、何も見返りを期待しないように、と。ですから、私はそこには多大なプレッシャーがあった事と思うのです。ジャンプに関しては…初めの頃はジャンプは大丈夫でした。ダブルをやっていた頃は大変ではありませんでした。12歳の時にダブルアクセルが出来るようになりましたし。そしてとても安定していました。

でも怪我が私に繰り返し起こり始めました。練習のやり過ぎ、成長した事への準備不足。女性の通常の身体の成長です。私の骨はとても小さくて、怪我は私のスケートから多くを奪いました。特にジャンプという点においてです。大部分において、私はジャンプが出来ませんでした。何か別の事が原因という事ではなく。それはまるで、何かのジレンマのようなものでした。どんどん酷くなって。まるで悪意のある流れのようだった。

そしてコーチが不満を言って…私のコーチは、私には不満は絶対に言いませんでした。私の母親に対してのようには言いません。彼は私がやらなかった事に対して、母親に不満を言いました。彼女はそれに苛ついていたと思います。文字通り、私を叩きました。彼のために演技が出来るように、と。つまり、沢山の事が起きていたんです。それが影響していました。子供としては、ただ受け入れていました。

 

I︰どれほど練習の状況がきつかった事と思います。貴方はカナダや米国、他の国へと旅していました。他の国での練習には怠惰な癖が見えましたか、比較して見ると。

 

R︰そうですね…私の人生の初めは、父の仕事のために引っ越しをしていました。日本までは、私が13歳まで。日本に住む事が嫌いだったと言えます。感情的に落ち込んでしまったので。パリに住んでいた時はいつも笑っていて、日本では落ち込んでいました。自分を安全にするためにも。私は外に押し出されていると感じていたからです。離れる時がやって来て、カナダへ引っ越しました。そのリンク、アリーナでの厳しい規律の後には…。誰もがジャンプの場所を分かっていて、皆がプログラムを知っていました。ティッシュで鼻をかむ時は、セッションで1度だけでした。その時はボードへ行って鼻をかんでゴミを捨てて、ただ脇へと出ていくんです。多くの違うルールがありました。

私がカナダへ行った時には、スケーターがコーチに話しかけていたり、スケーター同士が教えあっている所を見たりしました。私にとっては、何か麻痺した感じでした。私は13歳まで日本にいて、全て同じだと思っていたのです。私は日本人ではありませんが、カナダへ行った時には物凄いカルチャーショックがありました。私にとっては。米国へ行く事もです。そういった違った事は、確実に私を驚かせました。…難しいですね。

 

I︰興味深いのは、スイスは卓越したスピンのスケーターで知られています。デニス・ビールマンや勿論ステファン・ランビエールです。ファン達はいつも色々と思いを巡らすのです。スイスのコーチが持つスピンの技術について。でも貴方はずっと最後の頃までスイスのコーチはいませんでしたね。そして自分で自分にスピンを教えていた、と。

 

R︰私にはスイスのコーチも、スイスの水もありませんでした(笑)多分、クリスマスの期間にはスイスのチョコレートがありましたね。回転する事に関して、スイス人の遺伝子では無いのだとしたら…分かりません。多分、スイス時計がそうであるように、ただそういうものなんでしょうか、スピンも。分かりませんが(笑)

ただ、私は本当に自分で習得しました。

私の日本のコーチは、すごく若い年齢の頃からバック・スクラッチ・スピンに重きを置いていました。やり方はあまり教えてくれませんでしたが、それを重要視していたんです。そこから私のスピンの基盤が出来上がったと思います。そして私の母はいつも言っていました。もっと早く、もっと長く、と。それから私は自分独自の技術を持つという目標が出来ました。昨日よりも早く、長くスピンをすると。どれが答えとは、分かりませんけれど。

 

I︰貴方の本を読んで、質問しようと思った事があります。貴方の名前がついたスピンが、実は存在していません。

 

R︰ええ、知っています。本当にそうなったらいいのに。私はとても沢山のスピンを考案しました。特に、もし人が、私がやった全ての違った腕の動きのスピンを数えられるのならば。私はサイド・レイバックをやり始めました。そしてパンケーキ、ツイスティング・シット。全て私がやり始めたものです。でも今はとても人気になったものと言えば、パンケーキですね。もし人々がそのスピンを「ルシンダ・スピン」と呼んだなら、私はとても幸せです(笑)

 

I︰心を込めて、私は「ルシンダ・スピン」と呼びましょう。気持ちが挫かれる事は、デニス・ビールマンの後に「ビールマン・スピン」と呼ばれるものが出てきましたが、彼女は実際は初めてやった人では無い事です。

 

R︰知っています。あるロシア人女性(タマラ・モスクヴィナ コーチ)が最初で、彼女はそれを有名にしたんです。

 

I︰ただ、もっと上手かったんですよね。

 

R︰ええ、上手でした。でも「パンケーキ」は誰も以前にはやっていないものです。それが「ルシンダ」と呼ばれたなら、私はとても幸せです。

 

➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖

 

長いインタビューの中から、一部を抜粋して訳しました。日本での練習と、スピンについても、訳してみました。スピンについては、これは、人の名前がついたものって、ジャンプ以外だとビールマン・スピンしか無いでしょうか?ビールマン・スピンもねー…昔はよっぽど綺麗に出来ない限りはやらなかったので…結構貴重だったんですよね。イリーナ・スルツカヤ選手がビールマンをやった所を見た時は、かなり興奮したのを覚えています。

デニス・ビールマンさんとの違いは…何でしょう。やっぱりビールマン・スピンは見た目に派手さがあって、当時は相当人々を驚かせただろう、て事と、ビールマンさん自身が世界チャンピオンになっている事も関係してるのかな…。それか単純にあの形を短く表現する単語を探すのが難しくて、気づいたら「ビールマン・スピン」になってた…とか?

よく分かりませんが、ルシンダさんの気持ちは、とても分かります。彼女のスピンは一度見ると虜になってしまいます。今ならスピンでジャンプ並みの点数を稼いだのではないでしょうか。それほど卓越しています。

 

そして、日本での練習に関して。ある意味、予想した通りと言うか、悲しいけれど想像通りの話で、聞いていて辛かったです。今だとルシンダさんのように酷くはならないかもしれませんが、閉じた空間では結局似たような雰囲気になるのではないでしょうか。外国人の子供が複数いれば、全然違うと思いますが。想像ですが、どうせ日本語が分からないだろうと暴言を吐いた子供がいたのでは?けれど、罵詈雑言というのは言語に問題があっても感覚的に分かります。目に見える事でも、きっと色々あったでしょう…どれほど辛かったでしょうか…。

 

指導者による暴力ですが、2011年の会話で、質問者の方は明らかに軽蔑的な反応をしています。親が殴る事も、受け入れられない、という話し方でした。当然と言えば当然なんですけどね。私も、指導者、または両親が子供を殴る(しつけの範囲を超えて明らかに怪我をするもの、未必の故意に近いもの)、恫喝するという行為は、心の底から軽蔑します。何故なら、大の大人が、身体の小さな子供に対して、加えて立場が明らかに上だとお互い分かっている関係性において、暴力を振るう訳ですから。つまり、反抗して来ない、出来ないことが分かっている子供にやるのですから。私はそういう人をただ軽蔑します。男女関係なく。

ルシンダさんの話に戻ると、当時のコーチ達も今ではかなり年配になっていて、きっと考え方も違っているでしょう。海外へ行く機会も増えたでしょうし、ネットでもすぐに情報が入りますしね。ルシンダさんの話のように、皆がそうしていて、自分も影響されてそのように動いた、というのは、コーチ達にもあったかもしれませんね。今では少しずつ良くなっていると信じたいです。