アルトゥニアンコーチが米国市民権を獲得した時のインタビュー。

ラファエル・アルトゥニアンコーチが米国市民権を獲得した時に、これまでの事、生徒の事など色々語っています。コメントなどを抜粋して訳してみました。

記事はこちらです。

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【スケーター達のグローバルチームから祝福を。ラファエル・アルトゥニアンは米国市民となった。】


ラファエル・アルトゥニアン、黒海東海岸にあるジョージアという小さな国家で生まれ育ち、2000年代初旬から中旬頃にミシェル・クワンのコーチとして働いていた。クワンは彼の旅行ビザを手伝うために多くの時間を費やした。

数年間、米国に住んだだけだったが、アルトゥニアンはクワンを覚えている。彼女のゴールドの心と共に…国際大会で指導が出来ると確信を持てる、素晴らしい期間となったのだ。

「可笑しいんですよ。私は常に旅をするためにビザを取らなければなりませんでした。」

「ミシェルはいつも、ある場所から別の場所へと行くために私を助けていました。彼女は出来る限り私を手伝っていた。そうでなければ、私は競技会へ行けなかったんです。」


(中略)

 

アルトゥニアンは1990年代後半に南カリフォルニアへと引っ越した。2000年には、そこで永久的に定住した。彼は数年前にグリーン・カードの手続きをやり始めた。彼が言うには住民となるよりも、それはずっと難しい事だった。それでも完全な米国人となる事を受け入れたのだ。永住権を獲得する…それは彼の考えの中に長い間あり続けた事だった。

「私は申し込む事を決めました。何故なら米国人になる準備が整ったからです。」

「市民として、というのは、完全に違う感覚があります。もし市民ならば、この国で暮らす事において、全ての部分で参加するのです。以前は感じなかった事です。(グリーンカードがある事について)」


アルトゥニアンはソヴィエト連邦の子供として言う。彼は今まで一度も米国にやって来て、永久的に住む事を夢見た事は無かった。彼が初めて米国へ引っ越した時、レイク・アローヘッドへとスケートのレッスンのために通勤していた。彼の車で道に迷う恐怖により無力にさせられた事を、鮮明に覚えていると言う。

「私は公道から降りる事が怖かったんです。」「私は道に迷うんじゃないかと考えていたんです。ガソリンのタンクを満たんにしようとしました。それで私はレイク・アローヘッドとロサンゼルスの間に、公道から出ていく必要は無かったんです。逆戻りする必要も!もし私が公道から降りたら、私が行く道をまた探す事は出来ないと分かっていました。」


彼は当然、行動して、彼の道を見つけた。そしてこの過去15年は、彼を最もひっぱりだこのコーチの1人にした。米国人スケーターだけでなく、国際的なスケーターもだ。米国で働いたり指導したりする事を愛している最大の理由は、ここではスケーティングコーチが導くある種の仕事的生活だ、彼は言った。他の世界の腕の良いコーチ達とは全く違うのだと言う。


「米国人コーチ達は、彼らが求める色々なタイプのスケーター達と仕事が出来ます。良かったり、悪かったり、大人や子供…他の国ではそうは行きません。」

「有名コーチ達は大人や小さな子供たちとは仕事をしません。彼らは大抵、高いレベルのアスリートとだけ仕事をしています。私からすると、それは人生においても指導においても良い経験ではありません。」

「私は皆と仕事をするのが好きです。勤勉に働く人々と仕事をします。私はコーチ達のチームを持っています。5人から7人で、私達は全員が共に働くのです。スケーター達に成長するチャンスや機会が持てるようにするためです。私は自分自身が有名コーチだとは見ていません…私はただ普通のコーチです。他の人達のように。」


しかしアルトゥニアンの元には数多くのスケーティング・セレブリティがいる。クワンも含めて…彼の永住権のセレモニーの数週間後に彼を訪ねた。

生徒達はリンクでおめでとうと言ったり、又は彼に電話をした。彼はローカルニュースにさえ登場した。

「想像できますか?私の生徒達の全員が私に言ったんです。"貴方をニュースで見ました!"と。彼らは大層気に入ったようでしたね。」


アーヴァインのグレートパーク・アイスで、彼は過去の数カ月間に生徒達を指導していた。アルトゥニアンは国際的グループのスケーター達と仕事を続ける。米国のマライア・ベルとネイサン・チェン、チェコミハル・ブレジナ、フランスのロマン・ポンサールと、他にも沢山の生徒達が含まれる。

「私のリンクには多くの違う国出身者がいます。ですから(米国人になる事は)私にとって祝福のようなものでした。」

 

「グレートパーク・アイスで今私がやっている事は、米国の多くのコーチとは違ったやり方をしています。」

彼は新しい施設の事を話した。2019年にオープンしたばかりだ。

「スクールなんです。アカデミーです。スケーター達は毎日、私と一緒の授業があります。彼らは宿題があり、その後戻って来て、彼らが割り当てられた事に取り組みます。私はそれに更なる効果的アプローチを見出します。何故なら…特に子供たちには…この方法でもっと責任を持つからです。」


「実はネイサンの質問を沢山受けました。彼がイェール大学にいながら、どのようにとても上手く滑る事が出来るのかと。コーチから遠く離れていながら。」

「でもこの務めに関しては…彼が自分自身で作業をしている事なのです。彼は、私が彼がやる必要があるとしている事を理解するんです。たった一言だけでも。」

「私はこの夏にネイサンを見ていました。彼が本当に恋しいです。」

「彼は少なくとも五輪シーズン(2022年)の1年前には、1年間全て私と一緒に取り組むと約束しました。私は来たるシーズンは彼にとって最も厳しくなるだろうと思います。何故なら彼は既に1年コーチ無しでやりました。ですから今年は更に厳しくなると思います。去年は私との8年間のトレーニングの後に、初めて居なくなった年となりました。これは彼にとって体型を維持する事が厳しくなると思います。でも、どうなるでしょうか。私達はベストを尽くしたいです…他に選択肢は無いのです。」


「私は既に国際人だったのです。」

「米国人として、リンクの外でも責任があります。はい。でもリンクでは、私は常にスケーター達に責任があったのです。彼らが誰であろうと関係ありません。過去10年間、私は米国が3つのメダルを勝ち取る事を助けてきました(世界選手権で)。

私は出来るだけベストを尽くしました。私は自分が住んでいる場所への真価を見せたかったのです。はい、私は自分が住む国のためにベストを尽くしたいです。でも私の責任感はリンクの側にあります。私はコーチなのです。」

 

(後略)

 

終。

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コーチシリーズ(笑)をやりたいと思い、ちょっと古い記事になりますが、アルトゥニアンコーチの記事の一部を訳してみました。やっぱりミシェル・クワンは特別なスケーターだったんだなぁと改めて思いますね…。

コーチ達の言葉は、スケーター達とはまた違う、予想のつかない言葉が多くて読み応えがあります。そんな大変な経験があったのか…とか、それが気になるのか…とか。大人の人でも、フィギュアスケートという芸術的スポーツに携わって来た人達なので、考え方がちょっと変わっていたりもします。

これからしばらくはコーチ達の言葉を訳して行こうと思います。また疲れたり、どうしても気になる記事があったら、その都度更新していくつもりです。