アンドレイ選手(クセニア・ストルボワ選手の新パートナー)がこれまでの経緯などを語っています。

前回は新しいパートナーとペアを結成したストルボワ選手の話でしたが、今回はそのパートナー、アンドレイ・ノヴォセロフ選手のインタビューを一部抜粋して訳してみました。

ロシア語→英語→日本語です。

英訳された記事はこちらです。

 

I→質問者

A→アンドレイ・ノヴォセロフ選手

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アンドレイ・ノヴォセレフ︰僕がストルボワからのメッセージを見た時、誰かが騙そうとしていると思った。】


I︰1年前、私がクセニアに"貴方のパートナーはどのように現れたのか"を聞いた所、彼女は答える事を拒否しました。貴方がフランスのフィギュアスケート連盟からロシアのために競技する事の許可をまだ受け取っていなかった、という事実を挙げていて。どの時点で貴方はフランス人になったのですか?


A︰おそらく、2009年の事実から始める必要があるでしょう。僕の最初のパートナー、サブリナ・イメイキナと滑っていた時、僕達はジュニア・グランプリ・ファイナルの出場資格を得て、そこで5位になりました。僕達が2年間だけ一緒に滑っていたという事実にも関わらず、その年は世界ジュニアへの出場はかないませんでした。数点が足りなかったので。もし僕達が前進し続けていたなら、僕達はとても高いレベルに到達できたように見えました。ところが僕はモスクワへ招かれました。


I︰一人で?


A︰はい。彼らは別の女子選手と滑ってみる事を提案してきました。ターニャ・ダニロワです。僕は同意しました。何故なら、もし僕がパームに居続けたら、大きな展望が見えないと理解したからです。


I︰最初のパートナーに対して裏切り者のように感じませんでしたか?


A︰人として大事な事と考えると、感じました。ですがスポーツとしての点からは、かなり冷酷な事です。時々結果のために何かを踏み越えて行かなければいけません。僕はいつもパームでのコーチ、ヴァレンティーナ・フェドロヴナとヴァレリー・ニコラエヴィチ・トュコフに感謝しています。ペアスケーティングの完全なる素晴らしい基礎を与えてくれました。

パームから出たペア達との経験は、ただ自分に見せてもらえた事です。彼らが世界ジュニアで優勝してさえも、ただそれだけなのだと。僕は本当にスケートがしたかったんです。もしそこに居続けたならば、僕に何が待っているのかを完璧に理解していました。

ナタリア・パブロワが僕をモスクワへ招きました。その時に2組のリードするペアを指導していた人です。アナスターシャ・マルチュシェワ、アレクセイ・ロゴノフ組、そしてルヴォフ・イリシェチュキナ、ノダリ・メイスラージェ組。

他の全員はセカンドグループで練習をしていて、彼女は僕達にそんなに注意を払っていませんでした。けれど僕は素晴らしいコーチであるインナ・ウトゥキナに出会ったのです。当時彼女はパブロワを手伝っていました。

僕のパートナーはジャンプを上手く跳べていて、僕もジャンプを跳んでいました。僕達は全てのレベル4の要素をやっていたんです。トリプルスローにツイストも。でもどういう訳か、試合では上手く行きませんでした。その後ターニャは深刻な肩の怪我を負ってしまったのです。ユウコ・カワグチと同じものでした。定期的に肩の関節が外れるようになってから、彼女は手術をしなければなりませんでした。


I︰そして貴方は新しい女子選手を探し始めたと?


A︰僕は6ヶ月待ちました。僕達にとって以前のレベルへ戻る事は難しいと分かってはいたんですけれども。その先にある進展は言うまでもありません。6ヶ月後、医師達が回復には更に6ヶ月かかると言いました。あるいは1年だと。そして僕はニーナ・モーザーのチームへ行く事を決めました。彼らはターニャ・ノヴィクのパートナーを探していたのです。ウトゥキナ(コーチ)もそこへ行きました。ペアスケーティングにおける僕の3回目の冒険記の始まりでした。


I︰どの辺りが、最初の2回ではあまり成功ではありませんでしたか?


A︰はい。僕はすぐさま理解し始めました。ロシアン・カップのステージにおける競技会が僕達の最大限だったのだと。ベストな状態は…これらの競技会のファイナルへ行く事でした。それは、大体において、キャリアは終わりという事です。

そして僕は他の国のために滑るという、あるアイデアを考えました。少なくとも欧州選手権や世界選手権へ出場するのは可能に見えたのです。そして大きな大会というのはトレーニングにおいて完全に違う練習をします。違ったモチベーションで。選手がロシアの競技会だけに出ている時は、誰も貴方を見ません。まるで存在しないかのように。大抵は、このレベルでどのように滑るか、何をやるのか、に違いはありません。


I︰貴方はパートナーと共にスポーツ市民権を変えようと計画していましたか?


A︰どちらかがロシアのパスポートを所持していたら、殆ど不可能だと僕達はすぐに気づきました。ちょうどその時に、ブルーノ・マッソがダリア・ポポワとのスケートを終わらせて、アリオナ・サフチェンコとチームを結成しました。かつてダーシャと僕はパブロワのグループで共に滑っていたんです。お互いを良く知っていました。そして僕達はトライアウトをやる事に決めたのです。

6ヶ月間、僕は要素、プログラムを学び、そしてフランスのテストスケートで演技をしました。フランスのフィギュアスケート連盟は僕達の事をすごく喜んでくれたのです。ところが彼らは僕にある条件を出しました。モスクワからパリへ移る事です。


I︰貴方は、トレーニングの状況はモーザーの学校よりも良かったと言いたいのでしょうか?


A︰そこには状況など一切ありませんでした。唯一のペアコーチはクロード・セヴェナードで、昔ヴァネッサ・ジェイムスとモーガン・シプレを指導していました。クロード自身はシングルスケーターであり、その後シングルスケーターのコーチになった人です。けれどロシアやカナダを含む多くのペアスケーティングインターンシップを見て下さい。すなわち、彼女はペアスケーティングの基礎は知っていましたが、十分では無かったんです。6ヶ月間で僕達はほぼ全ての要素を失いました。そしてダーシャはスポーツを辞めると決めたのです。彼女は、彼女自身にとってスポーツを続ける理由が全く見えない、と言っていました。


I︰彼女の決断をどのように受け入れたのですか?


A︰人生のその時におけるステージの完了です。そして新たなステージの始まり。フランスのフィギュアスケート連盟は即座にローラ・エスブラットと組む事を提案してきました。僕達は同意しました。もし後々より強いパートナーを見つけたら、その選手と一緒にスケートを始める事ができますから。その合間に、僕がローラとトレーニングを始めたら、それは皆にとって有益なものになるでしょう。彼女を指導する事も。

彼らは夏のトレーニングキャンプを準備してくれて、数カ月で財政の問題を解決するよう努めると約束しました。でもローラと僕には多くの見込みは無かったと、僕は理解していました。何故なら良いコーチがついていなければ、ペアスケーティングの進歩は不可能だからです。


I︰その当時の自分自身をスケーターとしてどう思いますか?


A︰それは、もしかしたら、僕は今でも幸運なんです。本当に高いレベルに到達できるパートナーに出会ったのですから。僕はシングルをやっていた女子選手に話したりもしました。でも誰もペアをやりたがりませんでした。

ローラとは、少しずつ前進していました。3ヶ月で僕達は新しいスロー、トリプルジャンプ、ダブルツイストを学び、僕達の進展は連盟にとってかなり適していました。でも彼らは僕達ペアにそんなに投資をしなかったのです。モーガン・シプレ、ヴァネッサ・ジェイムスと同じでした。フランスの連盟は彼らのトレーニングにすぐに資金調達をしなかったんです。


I︰それでも、エスブラットと共に貴方はフランスのナショナルチャンピオンになりました。


A︰僕達が優勝したチャンピオンシップでは、殆どペアがいなかったんです。ヴァネッサとモーガンは大会を棄権しました。ですから僕達を除いては、ジュニアのペアだけしかいなかったのです。僕達なかなり弱々しいスケートで彼らを上回る順位になりました。個人的に、その勝利に関して何の勘違いもしませんでした。

その時まで、フランスフィギュアスケート連盟は僕に興味がある事を明らかにしました。コーチとして、必要な勉強を提供したりもしたんです。僕は興味がありましたし、ロシア人とフランス人のジュニアペアがいたので、コーチを始めました。この仕事と自分のトレーニングを合同で行いました。

これに対して、スケートリンクは人数分の住宅費用を返済してきました。フランスフィギュアスケート連盟が住宅費を払っていたのです。でも2018年夏、ローラはスケートを辞める決断の方向へと傾き始めました。何度かは彼女はその決断を変えはしましたけれど。でもその躊躇というのは、僕が出来るだけ早くコーチとして働き始めたいという考えを整えただけでした。


I︰そこへ、ストルボワからの手紙が…


A︰まさにそれが起こりました。クセニアはニコライ・モロゾフと共にフランスのトレーニング・キャンプにいました。彼女は怪我からの回復に取り組んでいて、どういう訳かエスブラットと僕がもう一緒に滑っていないという情報を得たのです。僕がWhatsAppでメッセージを見た時、正直言って僕は信じませんでした。僕は誰かが騙そうとしているんだと思ったんです。僕は既に妻と子供と一緒にパリへと引っ越していたので、自宅で全てを話し合いました。そして僕の妻は言いました。少なくともこのチャンスを取るべきだと。そうでなければ、思い切ってやらなかった事を残りの人生で後悔する、と。


I︰少し決断するのに怖さがあったと、正直に認めます?


A︰むしろ興味がありました。僕はスケーターとして発達し続ける事が出来るかどうか、本当に知りたかったんです。ほぼ10年立ち止まった後に、出来るかどうか。そして僕達は挑戦しました。クセニアの脚はまだ少し痛みがありましたが、要素を何個かやる事が出来ました。


(中略)


I︰貴方の協同作業の始めの頃、誰が貴方の意欲を高めてくれましたか?パートナー、それともコーチですか?


A︰この点においては彼らはとても違います。コーリャは何をやりたいのか、どのようにやるべきかを説明するのがとても上手いです。傷つけないように説明します。でも反対に意欲を持てます。

そしてクシューシャは…どう言ったらいいのかさえ分かりません。彼女は大変素晴らしい戦士です。彼女はやるべき事の全てをやる、アスリートの一人なのです。例えエッジでバランスを取っている時もです。


(中略)


I︰かなり長い間、フランスのフィギュアスケート連盟は貴方を行かせたくはなかった。この争いはどのように解決したのですか?


A︰この問題はフランスとロシアの連盟の間で解決されました。ですから、僕は詳細は知らないんです。どの論議にも関わっていませんから。ただ待っていました。ブルーノ・マッソの経験により僕は理解していました。アスリートが国から国へ移行する事に関わる問題で、解決しない状況というのは単純に存在しないのです。


I︰どのようにクセニアの最も問題である要素を学び直す事を、上手く処理したのですか?トリプルツイストの事です。


A︰大変でした。成人してから技術的な事を学び直す事は一般的に簡単では無いです。特に僕もまたツイストに確実な困難を抱えていたので、僕達は作業を複数のステージに分けました。数カ月間は、僕達はツイストの練習をしませんでした。以前の技術を忘れるためです。

それから、様々な専門家達と取り組み始めました。スタニスラフ・モロゾフも含めてです。かつてターニャ・ボロソジャールとマキシム・トランコフとツイストに取り組んだ人です。さらにジェーニャ・タラソワとウラジーミル・モロゾフとも。スタースは即座に言いました。何を変えるべきなのかを、正確に。そして僕達は目的を持って練習を始めました。そのうえ他の専門家達とは違って、モロゾフは提案の申し出から僕がはずれる事を許可しませんでした。僅かな事でさえも。彼の全ての推奨を履行する事を、彼は要求しました。

多くのコーチはこう考えます…ある要素が上手く行きます。よし、OK。少しミスがあっても問題ない、と。スタースにはツイストに関して、彼独自のトレーニング・システムがありました。全てのエクササイズの並びは、一ヶ月のトレーニングのために立案していました。そして、このシステムは上手く作用していて、素晴らしく効果があったと言えます。トレーナーの評価によると、最初の数週間は僕達のバランスは「悪い」と「とても悪い」だった、という事実にも関わらずです。

今は、その要素は毎日どんどん自信が持てるものに変わってきていると感じます。時々は、何かが上手く行きません。でもこのような要素では普通の事です。技術を変える事で、素早く新しいレベルへと完全に持っていくのは不可能です。


I︰スローは早く良くなりましたか?


A︰僕達はお互いに順応しなければなりませんでした。クシューシャはとても明確なスローの技術を持っていますから。


I︰説明してもらえますか?


A︰彼女はスローを自分で実施できます。事実として、同じトリプルジャンプであり、ただ幅が大きくなるだけです。非常に大多数のペアがスローを異なったようにやります。パートナーが指示して、投げて、高さが決まります。ツイストと女子選手の務めは、ちょうどよい時にただ団結する事です。そして片脚で降りる事。今の僕の務めは、可能な限りパートナーを助ける事です。でも同時に、彼女を妨げない事です。彼女の実行する事を駄目にしない事。


I︰どの試合に出場するか、もう決めましたか?


A︰確かな範囲としては、僕達がテストスケートでどんなものを見せるか、によります。ロシアナショナルに出場する権利を得るには、確実に多くの試合が必要な事は明らかです。この題目については、僕達は既に幾つか考えがあります。でもそれを話すには早すぎます。


I︰ロシアのフィギュアスケート連盟のリーダー達が、貴方達ペアを考慮に入れている事をどう思いますか?


A︰1年前、僕からは態度が懐疑的に見えました。一緒に取り組み始めてから、僕達がツイスト以外の全ての要素を披露した後もです。もう一方では、ロシアスケート連盟のリーダー達の立ち位置を完璧に理解していました。個別に要素を実施する事や小さなコンビネーションでは、最初から最後までの全てのプログラムを滑る事とは違うという事を。そして僕達はその時はそれが可能ではありませんでした。

振り返って、僕達は今シーズンに滑る予定のショートプログラムを振り付けていたんですけれども…ブルースです。フリープログラムは、とても興味深くアレンジされたクラシックにしました。このバージョンを使ったスケーターはまだいないように見えます。

今年は、ロシアスケート連盟会長のアレクサンドル・ゴルシコフと理事長のアレクサンドル・コーガンがノボゴルスクに来ました。両方のプログラムを見て、僕達が進展した所と、その他取り組みが必要な所を言及しました。そして、連盟が僕達のコスチュームや備品などを助ける準備があると言いました。これは、当然ですが、素晴らしい助けです。今は全てが簡単になってきているとしても。

パームのフィギュアスケート連盟は毎日の問題の全ての事を解決するために、僕達を助けてくれました。僕達はこの地域の代表となります。そして、この提携がこの先も続く事を本当に望んでいます。


I︰シーズンが始まると、貴方には全く新しい環境になります。貴方を悩ませますか?


A︰悩ます、とは間違った言葉です。むしろ、好奇心と意欲です。僕はこの同行者達の中にいたいですし、僕達に何が可能なのかを披露したいです。


I︰それでは、貴方は試合が好き?


A︰もし試合が好きではなかったのなら、おそらくずっと前に僕のスポーツキャリアを終わりにしていたでしょう。

 

 

終。

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ペア選手達のストーリーは本当に波乱万丈ですね。。。

シングルの選手もコーチを決めるのに大変な思いをしたりというのは良く聞きますが、2人で行う競技となると、どちらかが怪我だったり精神面だったり、あるいは個人的な事情だったりで競技を断念すると、別のペアを探さないといけなくなる。そして、見つかってもまた上手く行くとは限らない…。合う選手がいても国籍の問題が出てくる…本当に大変だなと思います。

コーチや練習場所の問題も出てきて…またスケートは合っても、お互いが性格的にどうしても合わなかったら、やっていけないですし…大変な競技ですね。

すごく波乱万丈なアンドレイ選手のスケート人生、私も個人的にはアンドレイ選手を全然知らなかったので、訳するのも迷いましたが、これだけ大変な事を経験してようやく選手としてスタートした新しいキャリア、少しでも多くの方に読んでもらえたらと思い、今回ブログに書きました。ストルボワ選手とも上手く行くように願っています。