元アイスダンス、ロシア代表ルスラン・ジガンシンさん。指導について、選手時代のこと。

アイスダンス、ロシア代表ルスラン・ジガンシンさんのインタビューがありましたので、一部抜粋して訳してみました。

ロシア語→英語→日本語です。

 

記事はこちらです。

 

I→質問者

R→ルスラン・ジガンシンさん

 

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【ルスラン・ジガンシン︰僕達はシュピルバンドとのトレーニングに月1万ドルを支払った。】


I︰貴方の今の1日はどうですか?


R︰皆さんと同じですよ、推測ですけれど。

朝起きて、コーヒーを飲んで、仕事に行く。僕がしている事を"仕事"と呼ぶのには、まだ慣れないんですが、この言葉とは完全に違う付き合い方をしています。働くと言うと、オフィスで悲しげに朝9時から夕方6時まで座っていて、その日が最後になるまで待つことです。僕はむしろ有給の趣味を持っている感じですね。


I︰私が理解する限り、貴方は主に子供たちと仕事をしていますね。


R︰昨シーズンは、本当に子供たちと仕事をしていました。幼稚園のグループ、また志願した熟練スケーターです。今のところは、アンジェリカ・クリロワに彼女のグループでの仕事の提案がありました。現在僕達は一緒に働いています。

 

(中略)

 

I︰貴方のスポーツのキャリアが終わった時、根本的に違う何かをやる事を考えたりはしなかったのですか?


R︰もちろん、考えました。どんなケースでもスポーツに関係する事だと、理解していましたが。まず初めに、僕はスポーツのマネジメントをやりたいと思っていました。そのうちにスポーツ心理学に真剣に興味が出て、たくさんの特別な文献を読みました。

でもこれら全ては、すぐに消えてしまったんです。僕は自分自身に問いかけました。

「僕は何が一番やりたいんだろう?」

答えはいつも同じでした。スケートです。

誰かが4歳からずっとフィギュアスケートをやり続けているなら、これは普通の事です。事実として、人生の全てです。


I︰コーチというのは殆どいつも裏側にいます。アスリートは、正反対で、1番になるために励むものです。どのように合わせたのですか?


R︰何故、裏側だと?人々がメドベージェワとザキトワの事を話す時、1番初めに誰が思い出されますか?もちろん、エテリです。そうです、すぐにそうなった訳ではありません。でも今ではフィギュアスケートにおいて、殆ど主要な人物です。

僕には野望もあります。加えて、僕がやっている事から本当の喜びを得ています。暇ではないんです。いつも動いています。たくさん旅をします。スケートキャリアの間よりも、たくさんです。


I︰今まで訪ねた場所で1番素晴らしい場所はどこですか?


R︰僕は本当に日本が好きなんです。僕にとって最も素晴らしい場所です。


I︰なぜだか、私は驚いていません。スケーター達は何故そんなに日本が好きなんでしょうか?


R︰分かりません。他の人の意見に依存した事はないですよ。僕は欧州、米国、アジアを訪ねました。比較が出来ます。

中国も気に入りました。でも、もっと独特です。僕は日本と中国は少し似ているのかな、と前は良く思っていました。でも違います。全然違いますね。

日本は別の惑星です。僕は彼らの杓子定規な所や献身的な所が好きです。彼らはクレイジーな仕事中毒者達です。


I︰日本人スケーターも仕事中毒者ですか?


R︰僕はあまり日本人スケーターと接した事はありません。でも、もちろん彼らを見ました。彼らはとても教養のある人々に見えます。常に人前に出るのに相応しく見えるのです。


I︰貴方のスポーツキャリアがとても早く終わった事に後悔はありますか?


R︰いいえ。1日足りとも後悔しませんでした。多くの人が、6ヶ月は「辞めたなんて自分は愚かだった」という言葉が出てくる、と言いますけれども。それは起きませんでした。僕は長い間その事について考えていたんです。もちろん、これは未知の所へ足を踏み入れる事でした。でも今は、全ての事が正しい時に起こったのだと思います。


I︰留まるチャンスは有りましたか?


R︰分かりません。モラルの観点からは、いいえ、です。感情の精神的な打撃がありました。母は、僕にもっと考えるよう説得していました。何度かパートナーを探そうとさえして。しかし僕は決断を変える事は無かったんです。


I︰貴方の引退は、未だに積極的に議論されています。傍から見ていると、全てがとても突然に起きたように見えます。そして貴方は一度もその理由を言いませんでした。


R︰さらに議論してもらいましょう。主な理由は怪我です。背骨の頸部に突出部ができました(まだ治療中)。それで理解出来るのでは。今僕は痛み無しに頭を動かす事が出来ません。例えば、空を飛んでいる飛行機を見上げる時などです。


I︰貴方がスポーツから離れる少し前に、貴方とエレーナ・イリニフは米国のイゴール・シュピルバンドの所へ行きました。それは役に立つ経験でしたか?


R︰僕はこの旅を、自分の人生を良い方向へ変えるためのチャンスと捉えていました。事実、全てが完全に違う方へ向かったのです。僕はファビアン・ブルザと仕事をする事を本当に楽しみました。実際、彼は全ての仕事の80%をやっていました。

僕はイゴールとは合いませんでした。彼の仕事のスタイルが好きではなかったんてす。僕が彼とのトレーニングに行きたく無かった事に、理解が出来たでしょうか。彼らのやり方が好きではなかったんです。

ロシアでは、コーチ達はアスリートにもっと近いものです。コーチは選手を追うものです。一般的に、体重や生活も。全ての事をやります。だからこそ選手は目標を達成出来るのです。そして結果を出します。米国では、お金を払った一時間のレッスンだけ、コーチと繋がりがありました。

また人々は皆、とても礼儀正しく、寛大です。彼らは顔を見たら微笑んで、目の後ろで人の事を吟味します。僕はそれも好きではありませんでした。


(中略)


I︰米国でのインターンシップは高額ですか?その事を考えている人達は何を準備すべきでしょうか?


R︰僕達が受け取っていた給料で、そこで生活する事はとても難しい事でした。原則、マイナスになっていました。そこで高水準な生活をしてはいなかったんですけれど。例えば、僕は家にインターネットがありませんでした。持つ余裕が無かったからです。唯一のインターネットは僕の携帯電話でした。

スポンサーが僕達の住宅費用を支払っていました。それがいくらだったのか、僕は知ってさえもいないのです。

一週間のガス代に25ドルを払っていました。月100ドルです。生活必需品に50ドル。全てを合わせると、既に200です。それから保険です。食べ物は一週間で約100~120ドルです。毎月400〜500ドルになります。トータルで、毎月1000ドルです。給料は明確にもっと低かったのです。第一に、まずは通貨の問題です。僕には貯金がありましたが、あっという間に消えてしまいました。

でも、僕はほとんど全ての料理の仕方をそこで学びました。ある意味、とても役立つ経験です。僕はその国へ行って、チキンの料理方法も知りませんでした、例えばの話です。数カ月後には、僕は全ての種類のステーキを作っていました。

それから僕はソバ粉を食べていたんです。モスクワから持っていきました。おいしくて健康的です。米国では大体14ドルくらいですが、僕達の国では1ドルです。真実ですよ。米国へ行ってからは、食べていません。


I︰シュピルバンドのグループでは、トレーニングにどれくらい支払っていましたか?


R︰1組のカップルで、毎月1万ドルになりました。大変な額です。でも支払っていたのは僕達や連盟ではありません。スポンサーでした。


I︰今、貴方には指導の経験があります。振り返って、貴方がアスリートだった時にフィギュアスケートに対する姿勢において、何を変えますか?


R︰僕は14歳頃の何かを変えますね。僕達はソヴィエト連盟のスタイルで滑るのが好きでした。静的なポーズで。フランス人でも、米国人もカナダ人でも、そのように今はもう滑りません。僕達もまた、あの時にはもうやるべきではありませんでした。僕達は全ての要素を見せようとしていて、それを保持し、修正しました。彼ら(米仏加)は1つの要素を別の要素へ、つなげようとしていました。そして全てのことをスムーズにやっていたのです。

僕達は教えられた通りにしていました。同時に、僕はコーチ達を責めたりする事は決してしません。彼らが僕達にしてくれた事に、とても感謝しています。彼らの忍耐、そして重労働に対してです。コーチ達もまた、彼らが教えられた通りに僕達と仕事をしていました。長く連鎖しているのです。

 

(中略)

 

I︰フィギュアスケートでは、コーチ達はしばしばとてもアクティブな両親達に直面します。貴方はもう、両親達とのコミュニケーション方法は成長しましたか?


R︰両親達はトレーニングの場にいるべきではない、と僕は思います。トレーニングの課程において彼らの参加というのは、公開レッスンを制限するものです。月1回でどうでしょうか。彼らが各トレーニング・セッションに来る時、貴方が先程言ったような混乱が始まります。何故なら、彼らは全てをもっと良く知っていますからね。

僕は一度、そういったアクティブな父親をリンクで見ました。彼は娘さんにジャンプを教えている所でした。その少女がリンクに衝突しました。でも父親は止めないんです。ボードの後ろにいて、何かを言います。そしてその子どもは彼の言葉を聞きます。コーチではなく。その後、コーチは非難される側になります。何故なら教えなかったからです。その同じ父親はこう言うでしょう。コーチは酷い、と。

 

(中略)

 

I︰どれほどの期間を、貴方の意見では、パパダキス・シゼロン組と彼らのスタイルは、アイスダンスを支配するでしょうか?

どのように彼らはあれほどの大躍進を遂げたのでしょうか?


R︰だれかが新たなスタイルと共に現れるまでです。彼らが急激な躍進をしたとは言えません。僕達がジュニアグランプリのある試合に出ていた時、僕は彼らを称賛とともに見ていました。彼らは既に飛び立っていました。多分、技術は弱かったんです。でも、彼らのスケートといったら!彼らは驚くべきダンサー達です。


I︰でも、彼らは多様性に欠ける、とたびたび非難されています。彼らは複雑化する方向へは行きたくないのだ、と。


R︰そのようなクレームは本当に分からないですね。彼らは、自分達のスタイルを見つけたのです。

複雑化に関して言えば、これは既にロシアのスクールは、西洋のどのスクールとも強く異なります。僕達は常に何かを加えようとします。物事を複雑にして、クレイジーなターンをします。全てが重く、静かに見えます。非常に農業労働者のようなスタイルです。

米国人やフランス人の最もシンプルな方法が物凄いスピードを得ている姿は、余分な力がなく、舞踊的に見えます。ヴィーカ(・シニツィナ)とニキータ(・カツァラポフ)は今現在、殆ど肩の力が抜けているように見えます。彼らは素晴らしい。一般的に、今彼らがフランス人達に最も近づいているという感覚があります。


I︰我々のアイスダンサー達はどの時点で、追いつくためのポイントを彼らの間で見出したのでしょうか?

私達はフランス人をとがめるべきですか?


R︰そんな事はしてくてもいいですよ。長い間、世界中がロシアのダンサー達が見せていたレベルのために、努力を続けていました。どこかで読みましたが、急落というのは多くの場合、既に手が届かないと人が思う瞬間に起こるものだ、と有りました。成長する事をやめてしまうのです。そしてもしかしたら、ロシアのアイスダンスでは、そう思う事を許したのでしょう。同時に、他の皆は本当に勝ちたがっていました。懸命に練習に励み、そして実際、追い越したのです。頂点を守るよりも、常に追いつく方がより簡単なものです。


I︰今シーズン、パターンダンスはまったく特有なもの、フィンステップです。多くの人は難しくなり過ぎやしないか、あまり面白くならないのでは、と恐れています。


R︰僕はフィンステップが大好きなんです。多くの人は、以前に皆が非常に愛していたコンパルソリー・ダンスの視点を通して見ています。スター・ワルツのような、全てが円弧を描くものです。フィンステップはある意味、とても直線です。でも早い。技術的に、とても難しいです。でも面白さのほうが、より多くなるでしょう。


I︰個人的な貴方のトップ3のダンスをお願いします。


R︰そうですね、フィンステップです。ヴィーカと僕がソチ五輪で滑ったものです。ヴィーカとはクールなカウボーイのダンスもやりました。ポルカです。それから、レーナ(・イリニフ)とのカルメンも大好きですよ。

 

終。

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ジガンシンさん、突然引退された時は驚きましたが、怪我が大きな要因だったのですね。アイスダンスの選手の大変な怪我のニュースは時々ありますから、やはりスポーツで、厳しい練習があるんだなと思い知らされます。悲しいニュースは読むのは辛いですが…。

国による指導の違いや、普段の国民性の違いもストレスになれば、そこでのトレーニングはやり辛いですね。

日本人というと、興味が無ければ笑顔は作らない気がします。私自身も、知らない人にそんなに愛想良くはしないですね。仕事で関わるなら違いますが、それでもあまり近くなければわざわざ笑顔にしないですかね。逆に警戒して怖い顔してるかもしれません(笑)

その方が良いと思う国の人もいるのかな、と思ったりしました。常にニコニコしてるけど何を考えてるか分からない、てのは、私自身も苦手かな…?

 

全ての選手がそれぞれのストーリーがあって、色々考えがあって。色々な記事を読むと、自分の予想外の内容が出てきたりして興味深いです。そして、いつ、どの場所で活躍するのか、まさに神のみぞ知る…。

長くフィギュアスケートファンでいると、選手が引退後のキャリアを知って、そこも楽しめたりするのが、私自身は新しい世界になりつつあります。指導者として登場する姿を見るのも、また楽しみの1つになってきました。

もちろん、表現者としての活躍も、見ていて嬉しい限りですね。誰がどこで活躍するのか、引退後は本当に未知ですから。

 

フィギュアスケートファンの旅は続いていきます…。