ポリーナ・シェレペン︰トゥトゥべリーゼは世界一厳しいコーチ?貴方が成功すればするほど、貴方のストーリーは色づけられる。①

ポリーナ・シェレペンさんのインタビューがあったので訳してみました。

長いので2回に分けます。まず前半の、ポリーナの競技人生とエテリコーチとの経験などです。

 

このような形でインタビューを読むとは夢にも思っていなかったです。

私の大好きな選手で、シニアでも活躍するだろうと信じていましたが…。

今でもシェレペン選手のスピンの素晴らしさは覚えています。これからの活躍をただただ願っています。

3人のポリーナは皆、シニアでは上手くいきませんでしたね…懐かしいけど悲しい気持ちも出てきます。

6/21に投稿されています。

 

ロシア語→英語→日本語です。

I→質問者

P→ポリーナ・シェレペンさん

 

https://fs-gossips.com/polina-shelepen-is-tutberidze-the-toughest-coach-in-the-world-the-more-success-you-have-the-more-stories-they-make-up-about-you/

 

【エテリ・トゥトゥべリーゼの最初の成功した生徒であるポリーナ・シェレペン。今は子供たちに指導している。エテリとのトレーニング経験と現在の女子フィギュアスケートの状況を語る。】

 

I︰貴方は9歳から少し年上の子供たちのコーチをしていますが、エテリ・トゥトゥべリーゼの11歳の生徒、ソフィア・アカチエワのトリプルアクセルと4回転トゥループは、子供たちの準備の仕方のアイデアを変えるものですか?

 

P︰私の生徒には3回転ルッツを習った9歳の女の子がいます。でもこれは今では誰も驚かせる事はありません。もし10歳の子が全ての3回転ジャンプとコンビネーションをやるなら、その子は平均的なハイレベルという事になるでしょう。他は全てPCSによります。

リーザ・トゥクタミシェワ、アデリナ・ソトニコワ、そして私が10歳の時にそのようなジャンプを跳んだら、私達は天才と呼ばれていたでしょう。今では驚かせる事は難しいです。

7-8歳でダブルアクセルと全ての3回転ジャンプを跳ぶ子供たちがいます。次に何が起きるのか、少し怖くなります。子供たちの健康が心配ですから。

 

I︰両親達はどうでしょうか?

 

P︰ある程度の親は、投資したお金が多ければ、より高い結果を得ることになるだろう、と考えます。7歳の子供でさえジャンプが出来ます。両親達にとってメインの事は、子供がスターである、という事です。

また真逆の見方を持つ、別の都市から来たスケーターの母親にも会いました。私が"何故モスクワへ引っ越さないのですか"と質問した時には、何故ならその子が才能があったからなんですが、答えはこうでした。

「私は子供にメダルを勝ち取って欲しくないのです。例えば、子供が全ての試験や選抜に合格したとして、多分彼女は五輪へ行きます。でも1年後、誰も彼女を覚えていません。そして彼女には傷ついた精神が残され、スポーツ以外には何も知らないんです。

ザキトワとメドベージェワは平昌五輪で最高の選手でした。でも次のシーズンに彼女達は背景へと段々消えていきました。」

私は彼女の話を聞いて、メダルの価値を考えました。

 

I︰でも、貴方がスケートを始めた頃の事を何か考えたりしました?

 

P︰私は体操と水泳をやっていました。私達はCSKAスケートリンクの近くに住んでいたんです。私はそこでスケートをするのが好きでした。その、私の母親は私を肩幅の広い水泳選手にはしたくなかったんです。それから私がスクールに行った時、私はそこがすごく好きじゃなかった。それで私は思いました。「スケートの方がやりたい」と。

 

I︰ある人々はこう思うようです。

スケーティングとは子供達に教育を受ける事を与えない、と。

 

P︰それは常に真実ではないです。私は同級生との関係が難しかったです。私は社交的な人間ではあるんですけれど。

私が何故トレーニングのために授業に出られないのか、という事を、誰も理解しませんでしたよ?ある日、私の先生が私の全てのメダルを持っていきました。その時には結構持っていたんです。クラスメイトは驚いていました。

「わぁ!この年齢でもうそんなに沢山の賞を取ったんだね!」と。

私は氷上でやる事には準備が整っていました。ただ学校の6つの授業全てには参加はしませんでした。

 

I︰そして世界のベストコーチの最初のスターになるとは、想像もしていなかった…

 

P︰そんな事は全然考えていませんでした。ただスケートをしていたんです。私達は"シルバー・シャーク・アイスリンク"で始めました。同じリンクにはホッケー選手がいて、氷を探すためにモスクワ中を走り回らないといけなかったのです。

結果が出始めたら、私達は"クリスタルヌィ" アイスリンクへ移りました。私はそこへ行った最初の日を覚えています。私達には個人のロッカールームと、リンクが2つあったんです!それで私は思いました。

「これは凄い、私達はものすごく成長したんだ!」と。私にとっては、どこで滑るかは重要ではなかったんですが、大切な事はエテリ・ゲオルギエヴナとスケートをする事でした。

 

I︰ポリーナが小さな頃は、トゥトゥべリーゼはどんな感じでしたか?

 

P︰面白い話があるんです。その頃、彼女のグループには大人のアスリートしかいませんでした。小さな子は全然いなかったんです。特に私のような子は。私が子供の時の写真を見ると、スケート靴を履いていて、お尻が大きいのが分かるんです!

今では選抜は更に大変になってます。女子は細くて、ジャンプを上手く跳んで、手足までしっかり伸ばすべきです。彼らは私を選ばないでしょうし、私でも私自身を選ばないでしょう(笑)

でもエテリ・ゲオルギエヴナは私を見て、言いました。「OK、私が彼女を受け入れましょう」と。彼女は私と、他に4人を取りました。それで私達は小さなグループを作りました。

勿論、私は彼女が怖かったです。トゥトゥべリーゼは本当に始めの頃から厳しかったです。でも今はコーチとして、厳しさというのは優越さを見せている訳ではない、と理解しました。それは尊敬と、規律です。そうでなければ、そのうちに彼らはまったく話を聞かなくなります。

 

I︰貴方はスケーターの1人に、既に4回転ジャンプを習わせようとしました。でもどうやって少女達の準備をしたのですか?

 

P︰私は余裕のあるとても良い3回転を見ました。そして「4回転を恐れない?」と聞きました。それから彼女の答えは、「いいえ。やってみましょう」でした。そして私はこう思いました。「全ての事には、"その時"がある。」と。

そうでなければ、9-10歳の子供は全ての4回転をマスターするでしょう。そして、フィギュアスケートはどこへ向かうのでしょうか?私はそのような進化は望みません。

そういう事は起こりました。私は自分自身に後悔してさえいます。私は10歳で3回転‐3回転を跳んでいました。プログラムを複雑にする事を勧められました。

ただそうは言っても、そのようなコンビネーションを学ぶ作業を、私達の仕事では課しませんでした。それはただ出来るようになるものです。

 

I︰4回転に挑戦した事は?

 

P︰あります。そういう瞬間がありました。私は12歳で、エテリ・ゲオルギエヴナが「4回転をやってみましょう」と提案しました。その時、私は全てを学んでいて、トレーニングがつまらなかったんです。タノでジャンプするというファッションもありませんでした。

私は何度か転倒して、半回転を回り過ぎたりしました。その後、私が14歳の時に4回転をまたやってみました。そして私はクリーンなジャンプで転びました。この事が試合前に起きてからは、私達は挑戦するのを止めました。そうして、4回転を学ぶ務めは無くなりました。

同時期にリーザ・トゥクタミシェワがトリプルアクセルを学んでいました。でも私達の誰も、そのジャンプが必要だとは思っていなかったのです。そして私達は成長し始めました。経験の不整合があり、私達は別の問題に向き合わなければいけなくなりました。

 

I︰今、ロシアの女子シングルでは全てのグループにおいて内なる戦いがあります。これは心理的にいかがですか?

 

P︰私はそういうものに直面しました。私はグループの数人のアスリートを「オーナー」と呼んでいました。そういうアスリートが複数いると、問題が起きました。何故なら彼らは全ての注意を自分たちに引きつけようとするのです。私にとってもまた、大変な事でした。

でも私がエテリ・ゲオルギエヴナの初めての生徒になってから、非常に多くの注目がありました。そしてグループは成長し始めたのです。私はすぐにそれに慣れていきました。より簡単になりさえしました。

私にとって大変になったのは、段々とグループの速度を上げて行く事でした。全員の例として。まず初めに、男の子達が跳ぶどのジャンプが、私に出来るかどうかを考え始めていた事に気付きました。私が最後の方にやっていた事です。

そして、ユリア・リプニツカヤが来ました。それから少し違ってきました。トレーニングセッションに来て、疲れるんです。彼女がどうやってジャンプするかを見ます。そして自分も上げていきたいと思います。

 

I︰嫉妬心は無かった?

 

P︰嫉妬はありました。隠したりしません。特に子供の頃からのコーチとずっと一緒にいて、そして誰か新しい選手が現れるのですから。私は感情を見せていませんでしたが、それでも皆が彼女を褒め称えて、私にはそうではなかったのは明らかでした。ある疑問が私の頭の中に出てきました。「私の事はどうなの?」

 

 

続く。